3代目社長となった左衛夫人が打ち出した大幅な経営改革とその余波

大衆は神である(62)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業者・野間清治の波乱の人生と、日本の出版業界の黎明を描き出す大河連載「大衆は神である」。

野間清治、亘親子の相次ぐ死により、講談社3代目社長には、初代清治の妻・佐衛が就任した。清治と一心同体の人生を歩み、ときに暴走する清治の手綱を引き締める役割の担ってきた左衛は、経営安定のため講談社を株式会社化するが、それが社内にさまざまな不協和音を巻き起こす。

第七章 紙の戦争──不協和音⑴

 

「夫婦合名会社」

左衛は、頭の働きの鋭い女性だった。『しのぶ草 野間左衛追悼録』には、彼女の人並みはずれた記憶力の一例としてこんなことが記されている。

食物を買い入れる、あるいは到来物があると、係の少年が邸の倉庫の棚に並べて品目と月日を記帳しておく。左衛はたまに倉庫に入ると、一通りざっと見るだけだったが、後日、少年が「何の品を持ってきて」といわれて探しても無いことがある。彼女は「何月何日頃、どの棚のどの辺にあるはず」という。その通り行って見るとちゃんと見つかった。こんなことはザラにあった。

野間邸に年に2〜3度出入りしていた明和印刷の元会長・市川憲次は左衛に会うたびに驚かされた。左衛が、市川のような中小取引先の家庭事情まで細かく知っていて、たとえば、市川を出迎えるときこんなふうな挨拶をしたからである。

「先頃はご旅行先から、お忙しい中をお心にかけられて、結構な品をお送りいただきまして誠に有難うございました。主人の大好物でありまして、一同で喜んで頂戴いたしました。いつぞや奥様にはご不快でご入院遊ばされたと承りましたが、その後はまったく御恢復でしょうか(略)。ご子息さまにはこの度学校ご卒業で、ご就職も○○会社へご決定とのこと、誠にお目出たく、皆様も定めしお喜びの事と存じます」

市川は「野間邸を訪問する人々は恐らく数百に上るであろう、そのような多数の人の事情を音羽の邸から一歩も出られぬ奥様がどうしてこうまで細かに知ることが出来よう」と感嘆すると同時に、また不審にも思った。それでこんな事を想像してみた。

〈これは講談社や野間家に関係ある人々の、個人カードが常備されていて、それらの人の家庭や身辺に、なにか変化があった場合は、記録係によって、大小となくそのカードに記入されてあって、たまたま訪問者があった時、またはそれ等の人に通信をする場合などは、まずこのカードに目を通して参考にされるのではあるまいか、さもなくして咄嗟の間に、このようなご挨拶が述べられる筈がないと、私はそのように独断し、それにしてもこのような周到な用意によって相手方の心を捕え、来訪の人々をして、知らず知らず講談社の味方としてしまうあたり、実に水際立った妙技とでもいおうか、余人には為し得ぬことだと、心から感服しておったのです。

左衛夫人歿後、たまたま野間先生側近の方にこの事に就いて伺って見たところ、私の想像はまったく誤りであった事がわかったのです。

左衛夫人は生来非常に記憶力がよくて、どんな瑣事でも、一度見たり聞いたりした事は、ほとんど忘れることがなく、しかもすこぶるよく整理された頭脳で、いつどこででもその記憶が極めて有効に働き出すので、その事に関しては側近の人たちも常に敬服していたとの事に、私は一層驚嘆したのであります〉

左衛は24時間、清治と一緒だった。食事の際はもちろん、清治が朝風呂に入るときも、来客を迎えて談笑するときも、社の幹部たちと徹夜の会議をするときもである。『少年倶楽部』編集主任(のち編集局総務部長)の加藤謙一によると、社用で清治に「百回お目にかかったとすれば百回、二百回お目にかかったとすれば二百回、かならず奥様がご一しょだった」という。

清治は何でも大きなことが好きで、がむしゃらで猪突猛進の傾向があったが、それを引き締めて安全地帯に導くのが左衛の役割だった。経済の実務になると、清治はあくまでも積極的であるが、後の始末はほったらかしである。それを左衛は「明細な計算と賢明な締めくくりを以て万違算なからしめた」(『しのぶ草』所収「野間左衛夫人小伝」)

清治にとって左衛は、有能な参謀であり、秘書であり、共同経営者であり、どんなデータでも記憶して必要なときに取り出せるコンピューターのような存在であったのだろう。

講談社の異数の発展の半分、いや6割は、左衛の内助の功によると古参社員らは言い、徳富蘇峰はそうした講談社のあり方を「夫婦合名会社」と評した。