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# 経済・ビジネス # キリスト教

ウェーバー『プロ倫』に隠された謎とは

現代の文脈で「社会科学の古典」を解き明かす

初読ではわからない「古典」の奥深さ

「学生のうちに読んでおいたほうがいい本って、何ですか?」

そんな質問を受けることがしばしばある。だが、グーグルやアマゾンなどで検索すれば、おすすめの本に出会えることも多くなってきた。私個人がとやかく言うよりも、そのうち、AI(人工知能)にまかせたほうが、それぞれの学生にとってピッタリの本が分かる日が来るかもしれない。

 

それでもおそらく、AIには盲点があるだろう。学生のうちに読んでおいたほうがいい本とは、一読しただけではよく分からない本ではないか。いまは十分には分からないけれども、社会人になってからも読み返す価値がある、そういうふうに思える本を手に取るべきではないだろうか。

世の中には、「古典」として読み継がれている本がある。読み返すたびに、新たな発見をもたらしてくれるような本である。M・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(以下『プロ倫』)もその1冊で、とりわけ戦後の日本社会においては、マルクスの『資本論』とともによく読まれてきた。

『プロ倫』と『資本論』。この2冊はこれまで「社会科学の古典」と呼ばれ、いずれも文系の大学生なら、とにかく読まなければならない必読書とも言われてきた。けれどもこの2冊を読破するのは難しい。マルクスの『資本論』は全3巻。とても分厚いので、私が学生のときは第1巻の途中であきらめてしまった。

ウェーバーの『プロ倫』は、あまりにも「注」が多い。とりあえず本文を読むとしても、それだけでは理解した気になれないので、注を丹念に読まざるをえないのだけれども、やがて精根尽きてしまう。結局私の場合、学生のときは『プロ倫』から生半可な知識を得たにすぎなかった。時代はバブル崩壊前、1980年代の後半であった。

なぜわれわれは『プロ倫』を読むべきなのか?

そんなに手ごわい本なら、読まなければいいじゃないか、と思われるかもしれない。それでも戦後の日本人は、この2冊を丹念に読んできた。

理由はおそらく、日本人は西欧近代の社会科学を体系的に学ぶことに、情熱を傾けてきたからであろう。私たちが追い求めている「近代化」とは何か。また、私たちが目標としている「資本主義の発展」は正しい方向に向かっているのか。

こうした大きな疑問に対して、マルクスとウェーバーは答えてくれるように思われた。そのような期待を抱いて、日本人はマルクスとウェーバーを読んできた。あるいは少なくとも「読むべきだ」と思った。そしてまた、「私は読んでもよく分からなかったけど、あなたもやはり読むべきだ」と薦めてきたのではないかと思う。