生存者が語る…日本軍捕虜1100人「決死の蜂起」その壮絶な記憶

偽名のまま命を落とした若者たち
神立 尚紀 プロフィール

今も残る231柱の「偽名戦士」の墓標

そして8月5日午前2時、捕虜たちは一斉に蜂起する。

「私の班は、正面ゲートを突破するグループでした。武器は何ひとつない。私は、野球のバット1本と毛布2枚を持って、突撃ラッパの合図とともに飛び出しました。鉄条網に毛布を掛けて乗り越えると、そこには豪州軍の機関銃、自動小銃の猛烈な射撃が待っていました」

 

捕虜のなかに「成田山」と呼ばれる、相撲が強く体の大きな陸軍の兵隊がいた。彼は猛射を浴びせる豪州兵の機関銃の前に仁王立ちになって、『撃て!』と叫んだ。機関銃が火を噴き、彼は『うーん』とうめき声を発して倒れた。しかし、しばらくするとまた立ち上がり、『撃てーッ!』と叫ぶ。そしてまたもや集中砲火を浴びて倒れる。そんなことを何度も繰り返し、身に数知れない銃弾を受けながらも、それらがことごとく急所を外れ、「成田山」は生き延び、その後も収容所で相撲を取り続けた。彼の本名を高原さんは知らない。

前団長の南兵曹(豊島一飛)は、操縦練習生になる前は信号兵だったので、軍隊ラッパの心得があった。彼は、突撃ラッパを吹き鳴らしたあと、銃弾を胸に受けて倒れ、自ら食事用のナイフで喉をかき切って絶命したと伝えられる。高原さんたちの次に豪州軍に捕えられた捕虜番号7番の台南海軍航空隊の零戦搭乗員・柿本円次二飛曹も、首を吊って自決した。

カウラキャンプの実質的なリーダーだった「南兵曹」こと豊島一一等飛行兵。蜂起のさいには突撃ラッパを吹き鳴らし、その後、死亡

高原さんは、飛行艇の戦友・古川欣一二飛曹(偽名・山川清)が、脚を撃たれて目の前に倒れているのを見て、その最期を見届けようと伏せている間に銃撃が終わり、九死に一生を得た。周囲には30名近くが伏せているように見えたが、高原さんと古川二飛曹以外は全員が死んでいた。

「私の尻のところで、神戸出身の土岐さんという陸軍の兵隊が心臓を射抜かれて、1発で即死しました。サーチライトで照らされて、動くと撃たれるから、死体の山の中で死んだふり。そら、怖かったですよ。霜が降りる真冬の寒さに震えながら小便も垂れ流しで、そのまま朝を迎えました」

第12捕虜収容所Bキャンプ、カウラ暴動見取り図

この暴動で、日本人捕虜231名と豪州兵4名が死に、数百名が負傷した。一緒に捕えられた飛行艇の戦友・沖本治義一飛曹(偽名・伊野浩)も命を落とした。カウラの施設が焼け落ちたので、生き残った捕虜たちはヘイの収容所に移された。これだけの事件のあとにも、豪州軍の捕虜に対する扱いは変わらなかったという。ただ、食事時にナイフとフォークが支給されなくなったのが、小さな変化と言えた。

「私は英語が話せたので、暴動後は通訳をやらされましたが、豪州軍の将校が、『あなたたちとの戦争が終わったら、こんどはソ連と戦うことになるだろう。だから日本人の捕虜はそれまでの間のお客さんだ』と。いま思えば、ちゃんと先を見通してた。えらいもんやったなあ、と思います」

やがて、終戦。高原さんは、昭和21(1946)年4月3日、復員船で浦賀に上陸、二度と帰れるはずのなかった故国の土を踏んだ。捕虜となって4年あまり、軍人であった期間よりも長い捕虜生活だった。戦死の公報が出ていたので、自分の葬儀も4年前に済み、戒名までもらっていた。空襲で焦土と化した故郷を歩くうち、「高原の幽霊が神戸を徘徊している」という噂が立ったりもした。

昭和17年、神戸市の兵庫県護国神社で執り行われた戦死者の合同葬。「故海軍飛行兵曹長 高原希國之霊」とある。並んでいるのは高原さんの「遺族」

役所で戸籍を回復し、戦死後の一等飛行兵曹から飛行兵曹長への進級も取り消されて、偽名の船員・高田一郎から本名に戻った高原さんは、もう一度生き直そうと、神戸市立外事専門学校(現・神戸市立外国語大学)で中国語を学ぶ。しかし、戦後の不況で就職口などなく、捕虜になった当初にヘイの収容所で一緒になった在留邦人の元銀行支店長を頼って、証券業界に身を投じた。

そして20余年、死にもの狂いで働いて、昭和50(1975)年には株式会社黒川証券(52年、黒川木徳証券となり、現在はあかつき証券株式会社)専務になる。人に媚びない超然とした態度と金への執着心のなさがかえって客の信頼を呼び、誰言うともなく「北浜の古武士」と呼ばれるようになっていた。日本セメントや同和鉱業、さらには金品位のきわめて高い鉱脈が発見された菱刈鉱山を所有する住友金属鉱山など、数々の仕手戦で勇名を馳せた「最後の相場師」、是銀こと是川銀蔵も、そんな高原さんに信頼を寄せた一人である。「是川はんには、私はブレーキばかりかけとった」と高原さんは回想するが、その大きな仕手戦の背後には、つねに高原さんの影があったと言われる。

高原さんはまた、豪州カウラ会会長として昭和59(1984)年、カウラ暴動40周年にオーストラリア再訪を果たし、以来、平成21(2009)年7月、89歳で亡くなるまで、現地に幾度も足を運び、日本庭園や桜並木をつくる活動に協力するなど、日豪の親善と戦友たちの慰霊に力を尽くした。

高原希国さん(撮影/神立尚紀)

「いまだに本名も身元もわからん人がようけおる。生きて帰っても名乗り出ん人、沈黙したままの人も多い。遺族でも、平和な世の中になってなお、捕虜になって死んだというのは恥ずかしいから、戦死の扱いのままにしてほしい、という方もおられるんです」

カウラの捕虜収容所は、いまはその面影を全くとどめず、ただ、231柱の偽名戦士の墓標が立っている。

「これまでの人生、非常に辛かったけどね、甘んじて辛いことに耐えてきた。辛いことが嫌ではなかったし、それが私の取り柄やと思っています。しかし、いろんな大変な目に遭うても、それが人生において一つも無駄になってない。『人間万事塞翁が馬や』」

数々の壮絶な体験を肚に沈めた上で、それでも「面白い人生やったで」と、「古武士」は笑った。