カウラ収容所の日本人捕虜団長を務めた「南兵曹」。この涼やかな笑顔の青年が、一斉蜂起の突撃ラッパを吹いた

生存者が語る…日本軍捕虜1100人「決死の蜂起」その壮絶な記憶

偽名のまま命を落とした若者たち

「生きて虜囚の辱めを受けず」——。

1944年8月5日、オーストラリア・カウラ捕虜収容所において、約1100人の日本人捕虜たちが、鉄条網の外へ向かって一斉に蜂起。231人が命を落とした。

収容所には、あり余る食料、水洗トイレにお湯が出るシャワーがあり、労働には報酬まで与えられながら、彼らはなぜ命を賭して蜂起したのか。

そこにあったのは、第二次大戦中、他国には一切なく、日本人だけが支配されていた、捕虜となることは屈辱だとする道徳律だった。

 

バットや食事用のナイフを手に蜂起

冴え冴えと晴れた満月の夜空に、ときならぬ突撃ラッパが鳴り響いた。オーストラリア東南部のニュー・サウス・ウェールズ州、シドニーの西方約300キロに位置するカウラ・第12捕虜収容所Bキャンプ。いまからちょうど75年前、南半球では真冬の、昭和19(1944)年8月5日未明のことである。

赤い囚人服を着た約1100名の日本人捕虜たちは、施設に一斉に火を放ち、手には思い思いに野球のバットや食事用のナイフを持って、雄叫びを上げながら、三重にめぐらされた鉄条網を、赤い川の流れのように乗り越えていった。

オーストラリア軍の機関銃が火を噴き、赤や黄色の曳光弾が横殴りに激しく飛び交う。捕虜たちはバタバタと斃れ、屍の山を築いてゆく。

――太平洋戦争の裏面史を飾る出来事として知られる「カウラ暴動」。高原希國さんは、偽名の船員・高田一郎として、そのなかに加わっていた。

偽名を使い、尋問には徹底的に抵抗

高原さんは大正9(1920)年、兵庫県姫路市に生まれた。兵庫県立神戸第二中学校では三塁手として野球部の主将をつとめ、のちに東京巨人軍のエースとなる澤村栄治とも対戦したことがある。大西洋単独無着陸飛行を成し遂げたチャールズ・リンドバーグに憧れて飛行機乗りを志し、昭和13(1938)年、海軍甲種飛行予科練習生に二期生として入隊、偵察員としての教程を経て、飛行艇搭乗員となった。

高原希國さん。昭和15(1940)年11月、佐世保海軍航空隊指揮所前にて

昭和15(1940)年10月11日、艦艇98隻、航空機527機をもって横浜沖で挙行された「紀元二千六百年特別記念観艦式」のさいには、九七式飛行艇(九七大艇)の一番機に電信員として搭乗、大艦隊の上空を先頭に立って飛ぶという経験をしている。

昭和15年10月11日、横浜沖で挙行された観艦式で、上空を飛ぶ九七大艇の編隊。高原さんは先頭の一番機に搭乗していた

開戦時は、九七大艇で編成された東港海軍航空隊の一員(一等飛行兵曹)として、前進基地のパラオ島にあり、偵察飛行などに任じたが、日本軍の緒戦における破竹の進撃にともない、ダバオ(フィリピン)、ケマ(セレベス島北部)、アンボンと転戦。その間、昭和16(1941)年の大晦日には、日本海軍ではそれが唯一の例となる、大型飛行艇による敵水上機母艦雷撃(魚雷攻撃)に出撃するなど、幾度かの死線をくぐり抜けていた。

「雷撃というのは、あんなに怖いものはないですよ。飛行艇3機に魚雷を2本ずつ搭載して、三方から海面すれすれを敵艦めがけて突っ込みました。私は銃座で、20ミリ機銃を敵艦めがけて撃っていましたが、こちらの曳痕弾と敵艦からの対空砲火が交錯して、それは凄かった。一番機は敵弾を受けて、私らの目の前で爆発しました。魚雷?……そんなもん、当たれへんがな」

高原さんの愛機、九七式飛行艇(九七大艇)。川西航空機(現・新明和工業)が開発した大型の飛行艇で、太平洋戦争前期に活躍した

昭和17(1942)年2月15日、電信員として搭乗していた九七大艇が、オーストラリア北方のアラフラ海を単機で索敵飛行中、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船3隻からなる敵輸送船団を発見。約2時間の触接ののち、積んでいた8発の60キロ爆弾で爆撃を敢行したが、その直後、敵戦闘機カーチスP-40と遭遇、高原さんが尾部銃座から放った機銃弾で撃墜したものの、自機も被弾、炎上し、海面に墜落した。

「手応えがあって、敵機が白い煙を吐いて墜ちてゆくから、勝った!と思ったのもつかの間、後ろを振り返ったら自分の飛行機も燃えてる。操縦席からブザーG(モールス符号で--・)3声で、自爆の合図がきた。墜落しながら、炎がまるで大蛇の舌のように、最後尾にいる私の尻に迫ってきました」

高原さんの乗機を撃墜した、米陸軍の戦闘機・カーチスP-40

機長の主操縦員は機上で戦死、副操縦員が最後の力をふり絞って海面近くで機首を立て直したおかげで急角度での墜落は免れ、不時着に近い状態で着水、8名の搭乗員のうち6名は脱出に成功し、運よく搭載していた小さなゴムボートで漂流を始める。南洋の灼熱の太陽の下、水も食糧もなく、重傷を負っていた1名は3日めに死亡、残った5名は5日めにようやく、ダーウィン近くのバサースト島に漂着した。

そしてさらに、人跡未踏のマングローブの森やジャングルのなかをあてどもなく彷徨い歩き続けること10日間。飢えと疲労で半死半生でいるところを現地人に助けられ、安心して眠りに落ちたが、目が覚めると豪州兵の銃剣に囲まれていて、抵抗すらできずに、開戦以来2番めの、オーストラリア軍の捕虜となった。ちなみに第1号は、のちにカウラで捕虜の団長になった「南忠男兵曹」である(彼が、2月19日、機動部隊のダーウィン空襲のさいに戦死とされた豊島一〈とよしま はじめ〉 一等飛行兵であることは、戦後明らかになる。階級も一飛曹と偽称していた)。

目隠しをされ後ろ手に縛られたまま、5人は輸送機に乗せられ、どこともわからない監獄に収容された。

「『生きて虜囚の辱めを受けず』という戦陣訓は、陸軍内部にのみ達せられたもので、海軍では読んだことも教わったこともありませんでしたが、日本人の道徳律として、そう考えるのが自然な時代やった。5人は示し合わせて、米潜水艦に撃沈されたトロール船の船員ということにして、それぞれ偽名で呼び合うようになりました。私は、『船員・高田一郎』として、軍人としての痕跡を残さずに死んでいこう、そう決意することが、捕虜になったいまいましい我が身を救う唯一の道と考えて、訊問に臨みました」

5人は、豪州軍の取調べに対して、徹底的に抵抗した。ある者は何を聞かれても「ハングリー」で通し、またある者は読み書きができない風を装った。取調べ官もついにさじを投げ、彼らに対する訊問を打ち切った。