柳川次郎(右)は、ボクシングのIBFコミッショナーも務めた。中央は、Jバンタム級の初代チャンピオン・全周都〔出典〕日韓親善友愛10年小史

伝説の武闘派ヤクザ「殺しの柳川」と韓国プロ野球の知られざる関係

あの山根明氏も思い出を語った

「殺しの柳川」と恐れられた伝説の武闘派ヤクザ・柳川次郎は、堅気となった後、多くの政治家や文化人、そしてスポーツ選手と交わってきた。しかし、反社会的勢力と接点を持つことは、当然ながら許されたことではない。

それが数十年前のことであっても、柳川との過去を公にする著名人は、ほとんどいない。数少ない例外が、日本ボクシング連盟前会長の山根明氏(79歳)だった。『殺しの柳川』著者・竹中明洋氏が綴る。

最強の「武闘派ヤクザ」を知る男

「もうマスコミの取材は受けんことにしてました」

会うなりそう切り出してきたのは、日本ボクシング連盟の会長だった山根明氏だ。

アマチュア・ボクシングの世界にドンとして君臨し、連盟の終身会長だった人物である。

 

昨夏に補助金の不正流用や審判の不正、暴力団関係者との交際などの疑惑が次々と露見し、真夏の大阪で連日、テレビカメラに追いかけ回された姿は記憶に新しい。あの騒動の後、会長の座を追われた。

「あれはほんまにとんでもない騒ぎでした。普通の人間やったら自殺してますわ」

大阪市内の喫茶店で会うと、当時のマスコミ取材の過熱ぶりをそう振り返った。毎日30人ものマスコミ関係者が自宅前に群がり、山根氏の妻も「怖うて水を買いに外に出ることもできんかった」という。

「私は歴史に生まれた歴史の男」などの芝居がかったもの言いは、マスコミの格好のネタにされ、しゃぶり尽くされた。私が会った昨年11月には、潮が引くように記者も寄りつかなくなり、役職がなくなったことを自虐的に示した「無冠の帝王」という肩書きのラミネート入り名刺を持ち歩いていた。

山根明氏〔PHOTO〕高田遼

そんな山根氏が私に会ってくれたのは、私が送った「柳川次郎との関わりについて話を聞きたい」という手紙を読んだからだ。当時、私は単行本執筆のため、柳川次郎と生前にゆかりがあった人物のもとを訪ねまわっていた。

1923年の釜山生まれの柳川は、バブル期の主役たる“フィクサー”許永中氏が「我々にとってエースみたいなもんやった」と語るほど、在日社会では知られた人物だった。山口組きっての武闘派・柳川組を率いて最強の「在日ヤクザ」として恐れられ、堅気になった後は、一転して日韓の橋渡しに奔走した。

1991年没。しかし彼の人生、とくに祖国発展に尽くした後半生は、これまで公に語られることがなかった。それはなぜか。柳川が日韓外交を裏で支えようが、在日の地位向上のために努力しようが、ヤクザ時代の鮮烈な印象が終生、彼につきまとったからだ。