東日本大震災の翌年、電力会社への世間の風当たりが強まる中で、資金繰り確保のための「電力債」発行が課題となっていた。強硬に反対する与党の女性政治家に、「ぼく」は突然呼び出されて……。
息詰まる証券ディーラーたちの闘いの日々を描く「東京マネー戦記」第17回。
(監修/町田哲也)
子どもが生まれたのは、ぼくが38歳のときだった。
予定日より、1週間以上早い朝のことだった。お腹の調子が優れないので、妻が病院に行きたいという。タクシーを呼んで送り出すと、ぼくは遅れて着替えなどの入ったバッグを持って病院に向かった。
病室に行くと、妻がベッドで顔を歪めて横になっている。今にも生まれそうな苦しみ方だが、医者によると、陣痛ははじまっているものの、出産まではまだ時間がかかるという。ぼくはいったん会社に向かったが、集中できずに午前中で早退して病院に戻っていた。
「大丈夫か?」
「もう、こんなに苦しいなんて、思わなかったわよ」
陣痛の波が引いた瞬間に、妻が苦し紛れに言葉を吐き出した。妻にとっても、ぼくにとってもはじめての出産経験だった。
「もう少しだから、がんばれ」
「うーん、早く出てきてよ」
このときはまだ、苦しみが8時間以上も続くと思っていなかった。ベッドわきのテーブルには昼食のパスタが手つかずのまま置かれ、サラダはすっかり干からびていた。男の子が生まれた頃には、彼女は憔悴し切っていた。
退院すると、妻は実家に帰った。祖母が子どもの面倒をみてくれるので、しばらくの間は身体を休めることができる。戻ってくるのは1ヵ月後だ。父親になったばかりの一人暮らしは、妙に居心地が悪かった。
当時ぼくの関心の多くを占めていたのが、電力債だった。
電力会社は東日本大震災以降、かつて経験したことのない逆風のなかにいた。いずれも原子力発電に多くを依存しており、原発を止めろという世論の高まりが経営を不安定化させていた。
喫緊の課題は資金繰りにあった。負債規模が大きいうえに、事業コストの上昇から手元資金を厚めにしておく必要があった。一部の銀行が追加融資をためらいはじめており、社債市場でふたたび資金調達する必要性が高まっていた。
「電力債なんて、本当に出せると思ってるの?」
松山千絵という政治家から呼び出しがあったのは、ある電力会社の資金調達に向けて勉強会を重ねているときだった。原発の維持に否定的な考え方を持つ国会議員数名が、当時の与党の議論をリードしていた。
ぼくが発言しようとするのを遮ると、篠塚部長が答えた。
「まだわかりませんが、お客様から依頼された際には、お手伝いしたいと考えています」
「あなたたちは、事態の深刻さを理解していないみたいね。今、電力会社の味方をすることがどういうことを意味するか、わかってないんじゃないの? 国民を敵に回すことになるのよ」
「私どもは、別に原発の存続を支持しているわけではありません。社債で資金調達をするという、企業の財務活動をサポートするだけです」
「だからその意味を考えなさいっていってるのよ」
議員会館の一室に、数人の国会議員が集まっていた。松山と年輩の男性議員の二人は見たことがあるが、それ以外は秘書なのか、ほとんど発言しなかった。
「議論はしっかりしているつもりです」
篠塚の型通りの回答に、松山の怒りが爆発した。
「そんな対応していいと思ってるの? 相手が誰か考えてものをいいなさいよ。強制的にあなたたちの業務を停止することだってできるのよ。このことはほかの証券会社にも伝えてあるから、あなたたちも会社として方針を決めてください」
我々は忙しいんだとでもいいたげに、年輩の男性議員が席を立ったのを合図に会合は終了した。