れいわ新選組の底力を、ポピュリズム批判だけでは見誤る「真の理由」

これは現代の「一揆」かもしれない
真鍋 厚 プロフィール

これは現代の「一揆」なのか

「れいわ現象」の背景にあるのは、「生産性」という尺度によって自分たちの人生の価値が暴力的に決定され、いずれは社会から「不要」という烙印を押されてポイ捨てされるのではないか、という、様々な生きづらさを抱えた人々の差し迫った恐怖であり、不安である(もちろん、一人ひとりが抱える恐怖や不安の具体的な中身については議論の余地があるだろう)。

平成の30年間、この国ではグローバル化に伴う経済的格差が拡大しただけでなく、「職場」を社会的承認の柱とする人生モデルが崩壊し、さらにそれらと並行して地域コミュニティなどのソーシャル・キャピタル(社会関係資本)が衰退、「社会的孤立」に陥る人々が増大した。

こうした悲惨な現状が、社会システムの変革による〝上からの〟救済を切実に求める機運を作り出している面が、少なからずある。

「NHKから国民を守る党」の場合、先行き不透明な経済情勢や、賃金が上がらないことへの不満、日常生活における漠然とした不安などが、自宅に直接訪問し、強制的に受信料を徴収しようとする具体的な脅威として「NHK集金人」に投影されたと考えると分かりやすい。

わたしたちの「徹底的に個人化された生活」と「情報環境への過剰接続」は、今後さらに進展することはあっても、後戻りする気配はない。そして、一見「誰もが自由に生きられる時代」が到来したように見えながら、実態は旧態然とした慣習やルールに押し潰されそうな境遇に絶望する人々は、「正しい権力の行使」を政治参加によって実現しようとするだろう。これは現代における「一揆」であるという言い方が相応しいかもしれない。

「わたしたちが抱えている恐怖や不安」に対する目処が付かない限り、巷でいう「ポピュリズムと称されるもの」が決して収束することはなく、「政治のエンタメ化」も有効な手段であり続ける。これは必然である。

それが民意に裏打ちされた「政党」の形を取り始めたのであれば、そこには恐らく「新しい共同性」への志向が存在するはずであり、その背後にある「無意識」にこそ観察の目を注ぐべきだろう。

特に「れいわ新選組」は、共通の危機意識を基盤に、見知らぬ者同士が「アジール(聖域、自由領域)」を作るような、直接参加型の「つながり政治」の最初の事例といえるかもしれない。

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