1964年の東京五輪、金メダル第1号となった重量挙げの三宅義信選手(左)と、マラソン銅メダルの円谷幸吉選手は自衛隊体育学校所属の選手だった

五輪代表225人、獲得メダル20個! 自衛隊体育学校の秘密に迫る

第1号は64年東京五輪の三宅義信選手

東京オリンピックまであと1年。世界水泳200m個人メドレーで優勝した瀬戸大也をはじめ、すでに出場権を手に入れた選手も出ているが、熾烈な代表権争いの本番はこれからだ。

オリンピック代表を目指す選手たちが所属するのは、高校、大学や企業、あるいはプロ球団などさまざまだが、55年前の東京オリンピック以来、途切れることなくオリンピック選手の供給源となってきた学校がある。その名は「自衛隊体育学校」。オリンピックに、200人以上の選手を送り、20個のメダルを獲得してきたこの学校、いかなる環境で、どのように運営されているのだろうか。

 

自衛隊体育学校は、いつ、なんのために作られた

1964年の東京オリンピックで日本人金メダル第1号は、誰だかご存知でしょうか?

ウエイトリフティング・フェザー級の三宅義信選手です。

当時、自衛隊体育学校に所属する自衛官だった三宅選手は、国民の期待通り金メダルを獲得し、重量挙げの会場だった渋谷公会堂に高々と日の丸を掲げました。

この三宅選手の金メダルをきっかけに勢いに乗った日本は、16個の金、5個の銀、8個の銅、合わせて29個ものメダルを獲得。

これは、前回のローマ大会(1960年)を11個も上回るメダル数でした。特に金メダルは、体操の団体・個人でしか獲得できなかった4個から、一気に16個となり、アテネ大会(2004年)と並ぶ日本歴代NO.1を記録しました。

ローマ大会からわずか4年で、これだけのメダルを獲得することができた理由の一つに自衛隊体育学校の存在がありました。

64年の東京以降、すべての五輪に代表を送る

自衛隊体育学校は、陸上・海上・航空自衛隊の共同機関で、昭和36(1961)年に、3年後の開催される東京オリンピックで、開催国にふさわしい結果を出すための選手養成機関として、そして、自衛隊における体育・格闘の調査、研究、指導者の育成を目的として創設されました。

当時のオリンピックの強豪国は、軍人が大活躍していたという流れからすると、自衛隊がその任を担ったという話もうなずけます。

実際に、東京オリンピックには20名の選手が出場し、マラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉選手も自衛隊体育学校の所属です。

「三宅に始まり円谷で終わる」

つまり、自衛隊体育学校はメダルを獲ることを使命とし、三宅選手は先陣を切って重責を果たしたと言ってもいいのではないでしょうか。

私自身、ロンドン五輪(2012年)の女子レスリングの試合を実際に現地で観戦しましたが、自衛隊体育学校に所属する小原日登美選手が48kg級金メダルを獲得すると、「これは行ける」と日本の応援団を含め会場の空気が一気に変わりました。

2012年ロンドン五輪、女子レスリング48kg級で金メダルを獲得した小原日登美選手(右から2人め)

その後に試合が行われた伊調馨選手も、翌日の吉田沙保里選手も金メダルを獲得し、ともにオリンピック3連覇という偉業を成し遂げるはずみになったのではないかと思います。

確かに伊調選手も吉田選手も世界一の実力者ですが、伊調選手は直前に左靭帯を切るアクシデントに見舞われ、吉田選手は3ヵ月前のワールドカップ団体戦で逆転負けを喫し、日本選手団の旗手として早々にロンドン入りするなど、肉体的にも精神的にも調整をするのが難しかったことは、想像に難くないからです。

さらに言うならば、この女子の金メダルラッシュは、男子フリースタイル66kg級で金メダルを獲得した米満達弘選手や55kg級の銅メダルの湯元進一選手(ともに自衛隊体育学校)にも及んだのではないかと思います。

体育学校内の資料室には、選手たちが獲得したメダルが展示されている

自衛隊体育学校は、東京からリオデジャネイロまですべてのオリンピック(日本が不参加のモスクワを除く)に、延べ225人のオリンピック選手を送りだし、20個のメダル獲得。日本のスポーツ育成に大きく貢献してきましたが、その実態を知る人は少ないのではないでしょうか?