奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤

「発進すれば必ず死ぬ」究極の特攻兵器
神立 尚紀 プロフィール

攻撃に失敗すれば、自爆か自沈

11月になると、回天部隊の出撃が始まる。回天のもう一人の発案者である仁科関夫中尉も、第一陣、菊水隊の一員として出撃した。残された隊員たちは、「羨望のまなざしをもってそれを見送った」、と竹林さんは回想する。

 

隊員たちの士気の高さに対して、精密機械である回天の生産、整備が追いつかず、搭乗の順番はなかなか回ってこなかった。竹林さんが回天の搭乗訓練に入ったのは、昭和20(1945)年4月のことである。5月、多聞(たもん)隊が編成され、竹林さんは、そのなかの勝山淳中尉以下6名からなる一隊に加えられた。

多聞隊(伊五十三潜・勝山隊)。前列左より川尻一飛曹、勝山中尉、荒川一飛曹。後列左より、坂本一飛曹、関少尉、竹林さん

「勝山隊の6名は、出撃まで3ヵ月間、士官も下士官も、搭乗員室の同じ部屋で、起居をともにしました。これは、同じ目的に向かってひた走る者同士の、心の触れ合いと同化を大切に考えた勝山中尉の方針を、上層部が認めてくれたのでしょう。故あって母親からの手紙が来ない私に、勝山中尉がお母さんから来た手紙を読ませてくれたり、出撃の悲壮感や緊迫感のなかにあっても、互いに思いやりのある生活でした。ふつう、軍隊で士官と下士官が同じ部屋で生活することはあり得ないですから、こんなことは、陸軍でも海軍でも例を見なかったんじゃないでしょうか」

昭和20年6月の多聞隊。前列左から勝山中尉、荒川一飛曹。後列左より竹林さん、坂本一飛曹

回天の操縦訓練は、最初の一回は一人乗りの狭い回天操縦室に、教える側と教えられる側が向かい合って座っての同乗訓練からはじまり、次いで一人で搭乗して、大津島や周囲にある島の周りを回ったり、湾内での方向転換、潜水艦からの発射訓練、そして味方駆逐艦を目標にしての模擬襲撃など、作戦に即したさまざまなことが行われた。

通常の魚雷では、発射後の針路変更はできないが、回天では搭乗員が自分の目で特眼鏡(潜望鏡)を見て、計算をしながら操縦し、突入する。事故を防ぐため、訓練潜航中の回天には、必ず水上追躡(ついじょう)艇と水上機が随伴していた。ただ、回天は無航跡なので、悪天候のときは上空から目視することができず、訓練はできなかった。

回天の訓練風景

「特眼鏡以外は目隠しされているような状態ですから、深度、速度、方向など、計算尺での自分の計算とカンだけが頼りです。操縦はできますが、飛行機のように自在に動けるものではありませんでした。

実際の敵艦襲撃の方法を例に挙げると、まず、距離2000メートルぐらいで敵艦を発見したら、特眼鏡を下ろして潜ったまま、なるべく敵艦から離れないように15ノット(時速約28キロ)ぐらいで航走します。700メートル前後まで近づいたら特眼鏡を上げ、敵艦の速力、針路を判断して、自分で計算して決めた針路にセットして、全速の30ノット(時速約56キロ)で突入するんです。

突撃中は特眼鏡は上げません。ストップウォッチをにらみながら、右手にある電気信管の把手(とって)を握って、敵艦にぶつかった瞬間に、弾頭の触発信管とあわせてスイッチが入り、爆発するようになっています。信管は、万が一の不発に備えて、二段構えになってるんです。もし予定時間が過ぎても命中しなければ、艦底通過後、やりすごして浮上し、また左右を確認して再度突っ込む。それでも駄目な場合——回天の航続力(30ノットで2万3千メートル)が尽きた場合には、自爆か自沈することになります」

訓練中のひとコマ。左下・勝山中尉。上左より、竹林さん、荒川一飛曹、川尻一飛曹

潜水艦から爆発音が確認された回天のなかには、こうした無念の自爆を遂げたものもあるとみられる。母潜が近くにいる場合には、自爆すると巻き添えにする可能性があるのと、音で敵に位置を知らせてしまうので、黙ってハッチを開いて自沈する。

「ただし、自沈に備えて自決用の青酸カリなどは渡されていませんでした。出撃のときもらった短刀も、愛する回天のなかで腹を切ったりして、ぶざまな恰好で死にたくないと思い、私は持って行きませんでした」

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