回天を搭載し、出撃する伊五十三型潜水艦

奇跡的に生還した「回天」搭乗員が語った「死にぞこない」の葛藤

「発進すれば必ず死ぬ」究極の特攻兵器

大型魚雷を人間が操縦できるように改造した特殊兵器は、「天を回らし不利な戦況を逆転する」ことを期して「回天」と名付けらた。一度出撃すれば、戦果の如何にかかわらず生還することはかなわない究極の特攻兵器であった。

この死が約束された特攻兵器の搭乗員として出撃しながら、奇跡的に生き残った若者がいた。戦況の悪化のなかで、「国のために死ぬことがすべて」と考えていた若者は、何を思って戦い、戦後、何を抱えて生きてきたのだろうか。

 

「回天」の発案者は現場の若手士官だった

100名の少年兵の視線がいっせいに注がれるなか、カーテンのように張られた土色の大きなシートが外されると、中から真黒い物体が姿を現した。それは、巨大な魚雷の姿をしていた。

竹林(旧姓高橋)博さんは、子供の頃に「少年倶楽部」(大日本雄辯会講談社)で読んだ、1936年ベルリンオリンピック・水泳1500メートル自由形金メダルの寺田登選手の記事で、同選手の泳ぎを形容した「人間魚雷」という言葉を瞬時に連想した。

昭和19(1944)年9月21日、徳山湾に浮かぶ大津島(山口県)でのことである。飛行機に乗ることを夢見て海軍飛行予科練習生(予科練)を卒業したばかりの彼らにとって、海に潜る特攻兵器の搭乗員になるとは想像もしなかったことだったが、「いまさらあとへ退けるか」と、竹林さんは覚悟を決めた。

回天一型。一人乗り、操縦可能な「目のある魚雷」である

竹林さんは大正14(1925)年、札幌に生まれた。小学校卒業後、家庭の事情で親元を離れ、東京に出て魚河岸の問屋で働きながら夜学の昌平中学校に通う。朝4時に魚河岸に行き、そこからトラックやオートバイ、あるいはリヤカーで得意先に魚を納入、時間ぎりぎりに店に戻って、ときには歩きながら路上で読書し、須田町にあった軍神廣瀬武夫中佐(日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死、「軍神」とされた)の銅像を仰ぎ見ながらの通学だった。

中学5年の昭和18(1943)年、海軍甲種飛行予科練習生を志願、同年12月1日、13期生として三重海軍航空隊に入隊した。すでに当時、アッツ島玉砕、山本五十六聯合艦隊司令長官の戦死などが報じられ、戦況が不利になっていることは誰の目にも明らかだったが、

「合格は嬉しかったですよ。この戦争で、日本のために死ななきゃいかんな、というのは私たちの自然な感情でした」

と、竹林さんは言う。予科練での生活は厳しかったが、小さい頃から他人の飯を食って育ったそれまでの苦労を思えば、十分に耐えられるものだった。

昭和20年、回天特攻隊の訓練の合間の竹林さん

昭和19(1944)年3月に茨城県の土浦海軍航空隊に移り、猛訓練に耐えて予科練卒業を目前に控えた8月末、大格納庫に竹林さんら偵察要員の約1600名が集められ、「必死必殺の特殊兵器」の搭乗員への志願者が募られた。

「筆記用具の入った手箱を持って座り、司令の訓示を受けました。強制はされていません。一歩前へ、とか、手を挙げろ、というものではなく、終わったら希望者は紙に〇をつけ、希望しない者は白紙で出せと、それだけでした」

竹林さんは、迷わず熱望の二重丸に「絶対」と書き加えて提出した。多くの志願者のなかから、100名の特殊兵器要員が選ばれた。発表になった後、選に漏れた練習生たちが、どうして自分が選ばれないのかと、教官に詰め寄る一幕もあった。だが、その時点で、肝心の「特殊兵器」がどういうものであるかは誰も知らない。

特殊兵器搭乗員に選ばれた竹林さんたち100名は、9月1日、盛大な見送りを受けて土浦を出発、呉の潜水学校などでひと通りの教育を受けたのち、9月21日、大津島の秘密基地に配属になった。

そこで初めて、基地指揮官・板倉光馬少佐より、

「お前たちはこの兵器に乗ってもらう」

と、シートに隠されていた特殊兵器——「回天」を見せられたのだ。

「おおっと目を瞠りましたが、すぐに、よし、これで行くんだと心を決めました。板倉少佐は、『もし嫌だという者があったら遠慮なく申し出よ』と言いましたが、誰一人として嫌だという者はありませんでしたね」

回天は、日本海軍の誇る酸素魚雷(九三式魚雷。航跡が目立たず射程が長い)を、人間が操縦できるように改造し、頭部には1.5トンを超える炸薬を詰め込んだ「目のある魚雷」で、まさに「人間魚雷」と呼べる特攻兵器だった。

潜水艦の甲板上に数基ずつ搭載されて目標付近まで運ばれ、母艦である潜水艦から発進すれば、敵艦に命中してもしなくても搭乗員は確実に死ぬ。

特筆すべきは、その開発は上層部の指示ではなく、現場の若手士官の発案と嘆願によるもので、発案者自身が先頭に立つ覚悟が明確だった点、ほかの特攻兵器とは一線を画していた。発案者の一人、黒木博司大尉は、昭和19年9月7日、徳山湾で訓練中に殉職している。

回天を発案した黒木博司大尉(左)と仁科関夫中尉(右)

大津島では、「純粋培養」と呼ぶにふさわしい外界から隔絶された環境で、顔にまだあどけなさを残した若者たちが、回天特攻隊員として、究極の「死」に向けての訓練に励んでいた。全員が同じ条件で死と向き合う、男同士の連帯意識からか、そこには「特攻基地」という言葉から受ける殺伐とした印象とは裏腹に、和気あいあいとわだかまりのない空気が流れていたという。

回天の発進テスト。樺島(山口県)にて