アメリカらしさというのは、アメリカ人としての病いとも言える。
たとえば、かつて岸田秀が『ものぐさ精神分析』などでその病理を指摘していた。
「アメリカの共同幻想は、アメリカ大陸にもともといた原住民を大量虐殺した経験の抑圧と正当化に支えられている」と岸田秀は指摘している(原文の語順を少し変えてある)。
アメリカという国は、原住民を大量虐殺して成り立っている。そういう紛れもない過去を抱いている。べつだん隠してもいない。かつては「西部劇」などでそういうシーンが勇ましく描かれていた。
しかし落ち着いて考えれば、あまりまっとうな行為ではない。
だから、その行為を正当化するために、その後も似たようなことを繰り返してしまう。正義の輸出である。正義のためにいろんな国へ軍隊を送り込み、正義のためにその国の住民を虐殺する。そして、その行為は正しかったのだと発表する。その行為を反復しつづける。
そうすることによって、「原住民を虐殺した」という行為は正当化されることになる。どこかで罪悪感を抱きながらも、建前としてそれを認めるわけにはいかないので、反復的に繰り返してしまう。そういう病いである。
原住民をインディアンと呼び、悪しき自然存在のようにとらえ、彼らを排除することによって、アメリカ合衆国を建設していった。
ときには簡単な挨拶をしただけで、あるときは騙すように、またあるときは銃の力で、土地を自分たちのものにしていった。もともとお互いのルールが違っていたのだから、土地に対して執着する側がどんどん獲得していった、と言うこともできる。
奪った土地は、銃によって守った。
「暴虐な国家権力=イギリス」との戦いが正の部分だとすると、原住民との戦いは負の部分である。どうも、“仕方のない作業”というふうに捉えていたように見える。アメリカ原住民を、悪しき自然現象のようにしかとらえていなかったのだ。
銃を使ってこの国を建国したのだから、銃をなくしたら、いつぶっつぶされるかわからない。そういう心情をどこかに持っているということだ。
銃に対する「原罪的な固執」はそこにある。