【世界遺産決定】稀代の建築家・ライトが日本をこよなく愛した理由

知られざる深い絆があった
五十嵐 太郎 プロフィール

帝国ホテルの設計が傷心を癒した

ライトは1913年にも再来日しているが、きわめて重要なのは、「帝国ホテル」の設計を依頼され、1917年から1922年まで日本に滞在していたことだろう。彼は途中で日米を往復していたが、帝国ホテル以外にも、池袋の「自由学園」(重要文化財)、「山邑邸」(重要文化財)、「福原邸」などの仕事も引き受けていた。

結婚式などでも使われる東京・池袋の自由学園

実は1914年、ライトは、召使いの錯乱によって最愛の夫人が殺害され、スタジオを放火されるという大きな悲劇に見舞われている。その直後となるこの期間は、アメリカに居づらくなっていた傷心の彼が新天地で重要なプロジェクトに挑戦するというタイミングだった。

実際、帝国ホテルは、外タレ建築家がやっつけで手がけたものではなく、ライトにとっても、大谷石を活用した重厚かつ巨大な作品となった。

1923年、帝国ホテルの竣工披露パーティーの日に関東大震災が発生したものの、建築は無事だったことで注目を集めたが、大変な船出だった。また太平洋戦争の際は、アメリカ軍は戦後に接収することを意識し、空襲の目標からは外されている。

こうして東京の苦難に耐え忍んできた建築だったが、皮肉なことに、戦後の復興を遂げ、オリンピックから万博に向かう高度経済成長期の激しいスクラップ・アンド・ビルドによって、1968年に解体されてしまう。もしオリジナルが現存していれば、間違いなく、世界文化遺産の有力な候補になったはずだ。

愛知県・明治村にある旧帝国ホテル本館(ライト館)
旧帝国ホテル本館の内観

ちなみに、帝国ホテルの建て替えをめぐっては、当時、保存運動を巻き起こしたことが特筆される。なぜなら、これが近代建築に対する最初期の保存運動になったからだ。

現在、明治村に帝国ホテルの中央玄関のみが移築・保存され、公開されている。ともあれ、かつて日比谷の一等地に存在したホテルの一部だけが、当初の文脈と違う場所に存在する姿は、「漂流教室」のようで不思議な気分にさせられる。