〔PHOTO〕『ショーケン最終章』より

特攻はなぜ考え出されたか?

あなたを駆動する「物語」について13

タレント本の面白さ

ある「物語の型」ができる過程を、追体験するようなことがあった。

不思議な夢を見た。

わたしは人の銃殺場面を見ている。わたしが銃殺を命じられているのかまでは定かではない。民家で、何人かを後ろ向きに立たせて撃つ。戦争中にあった感じの絵だ。

そのとき、上官とおぼしき人が言う、

「ひとりひとり、名前を呼べ。そうすればお前は英雄だ」

意味がわかるようなわからないような言だが、この夢は印象に残った。

目がさめてから、その前日に兄に聞いた「ショーケン」の話を思い出した。

いろいろな疑問が繋がる感じがやってきた。

ショーケン、とは、さきごろ亡くなった、俳優の萩原健一のことである。

「ショーケンの本がすごく面白かった」

と、先日会ったわたしの3つ上の兄が言ったのだ。

わたしとしたことが、ぬかった。というのは、わたしはもともとタレント本というのが好きで、よく読んでいたが、この頃読んでなかったからである。

タレントとは、つまりは集合意識の器だ。そうだからこそ人気を得る。というより、集合の無意識というものに、存在を捧げ尽くして死ぬ、それがタレント(芸能民)なのではないかとわたしは感じてきた。

 

フレディ・マーキュリーはこう言った、「俺はパフォーマー、人々が見たがっているものを見せる」。

だから、タレント本はたいてい、文章がつまらないものでも、面白い。その時代と社会の空気がわかる。

そのうえ、ことはショーケンである。一時代に、時代精神そのものの具現のように崇められたあの俳優。

ショーケン最終章

彼が死んで、多くの人が、ある時代精神が死んだように感じて、こころに空虚を感じた。

突き詰めた意味では、存在の究極にしてタブー、聖にして俗のきわみ、それを大衆に代わって代行してくれるのがタレントなのだと思う。

ショーケンという、思えば不思議なあだ名は、まずは本名が敬三なのにケンちゃんと呼ばれていたことに始まり、あとは彼の育った時代と場所の空気を、そのまま凝縮したものである。日暮里や赤羽界隈の「軟派の不良」であった中学生のケンちゃんは、界隈の「硬派の不良」とのパイプ役であり、喧嘩でも仲裁役を果たすことが多く、いつしか地域の大番長である朝鮮高校のケン(ダイケン)に子分のようにかわいがられた。それで、ショーケンである。

のちにスターになる人の、ごく若い時代からの立ち位置や観察眼、そして武勇伝に、感心しないわけにはいかない。

が、同時にちょっと考え込んでしまった。若い人間が、街なかで、喧嘩していたのは、いつまでなのだろう? 大規模なものはわたしも見たことがない。一度も。いちばん最後に「若者の抗争」みたいなものの存在を聞いたのは、いつ? 「チーマー」くらいが最後ではないか?

街から危険な香りは消えた。少なくとも若者は、そういうことをする存在ではなくなり優しくおとなしくなった。街は学校は社会は、管理の場となり、安心安全を唱え続ける。が、喧嘩を見ないからと言って、「平和」や「安心安全」が達成されているとは、とても思えない。いじめは増えている。虐待は増えている。大量殺人事件は増え、一度の殺傷人数も増えるばかりである。自殺者もまた。

こういう社会は、一体なんなのか。一体何がそういうものを、生み出す力なのか?