「ブス」とは何か? 「ブス」という言葉は重く思われすぎ?  新刊『ブスの自信の持ち方』を上梓した作家の山崎ナオコーラさんにインタビュー。「『ブス』という言葉をあえて使いたかった」という思いの背景にあるものとは――。

(取材・文:小野美由紀、写真:林直幸)

「差別がある世界で生きている」ことに自覚的でありたい

――少し前に、ネットメディアの記事で「カルチャー顔」という言葉で容姿を表現されたミュージシャン本人がSNS上で抗議し、記事が炎上し書き手が謝罪するという出来事がありました。

メディアと個人がフラットな関係になってきたからこそ、容姿などについて「差別された」と感じた側が抗議しやすい社会になっているのではと思うのですが。

山崎:今は個人の考えが発信しやすくなっているから「こういうのが嫌だ」という違和感がすくい取られるようになってきている。

私は時代の中で仕事をしているので、今の時代だからこそ、この本も出たんだろうなと思う。10年前にはそんな話ができなかった。

今は、その人それぞれの悩みに関するような話をしやすくなっていて、とても良い時代だなと思います。

――表現についてのお話をすると、現在は小説や映画などの創作物に関しても、ポリティカル・コレクトネスが重視されるようになっています。一方で、私自身は表現をする上でそれが枷になるなと思うこともあって。例えば登場人物の容姿を表現するとき「この表現がだれかを傷つけてしまうんじゃないか」と考えて躊躇したり……。

「差別・差別じゃない」の線引きが明確ではないからこそ、見た目について何か表現することが難しく、腫れ物に触るような扱いになっているとも感じます。山崎さん自身は小説を書く上で、表現について意図的に気をつけていることはありますか?

山崎:小説の場合は、善悪の問題じゃない世界なので、どんな書き方をしても良いし、差別語も許される世界だと私は思っているのですが、安易なカテゴライズを避けたいという気持ちは、今は一応ありますかね。

例えば、通りすがりの登場人物で見た目しかわからないはずなのに、地の文で「母親が」とか「老人が」とか、勝手に属性を書かないようにしようと思っています。でも、10年前の文章ではもっと違う感覚で書いちゃっているのもあると思います。

ただ、そこは徹底しなくて良いとも思っているんです。私自身、50年前、100年前の小説を読みますが、その中ではそれこそ女性に対する差別的な視線がバリバリ書かれていて、今だったら絶対に通らないような文章があるわけですね。

でもそういう表現が出てきた時点で作品としてアウト、とは私は思わないので、無くせば良いってわけじゃないと思うんですね。

私が書いている文章についても、もし未来に読まれたら、これ今だったら差別だよね、とか、今だったら絶対こんな表現しない、とか当然出てくる。

でも、100年後に違和感を持たれない文章を書くことが仕事なのかというと、そうじゃないと思うんです。

私は100年前の作家が差別主義者だったとしても割と受け入れられるというか、その時代だからこそ出てきたものには価値があるし、作家は、完全にホワイトな文章を書く事が仕事ではないと思います。