中国残留孤児に日本語を教え続けた、ある「先生」の回想

戦後74年、語られなかった物語
平井 美帆 プロフィール

「なぜ今まで隠していたのか」と騒ぎに

一方、成良さんは日中両国の関係する省に根気強く書簡を送り、宮崎さんの訪日調査への参加を求めていた。時は流れ、忘れもしない1994年秋。ロシアのサンクトペテルブルグ大学に国費留学していた宮崎さんは、1カ月の休みを利用して汽車でモスクワから北京に向かっていた。一週間の汽車の旅を終えて北京駅に着くと、出迎えにきていた妻が血相を変えて詰めよってくるではないか。

「結婚してから22年も経つのに、なぜ今まで隠していたのか」

旅の間、自宅に旧厚生省から集団訪日調査の案内書が届いていたのだ。日本からの郵便を不信に思った次男が開封してしまったことから、勤務先の大学にまで知れ渡り、「先生は日本人だったのか」と大騒ぎになっていた。

 

その一方で、日本へ旅立つ日が目前に迫っていた。いまを逃せばもうチャンスはないかもしれない。慌ただしく準備にとりかかり、モスクワから北京に戻ってから一週間後には第52次訪日調査団の一員として飛行機に乗り込んでいた。

永住帰国を決めたのは、それから2年後のことだ。親が見つかっていないから日本で頼れる親族はいない。自分も妻も北京での仕事を捨てねばならず、次男は入学したばかりの高校をやめなければならない。それでも、自分は日本人であるし、子どものためにも日本のほうがいいと思えた。それに公安局にも日本人と広まってしまった以上、中国での先行きは不透明だった。

51歳からの再出発は覚悟していたよりも厳しかった。ハローワークで職業訓練のクラスを受講して、帰国して半年で2番の成績を取ったが、いざ仕事探しとなるとどこも雇ってくれない。日本語ができないと「中国人」と言われ、周りは自分たちに理解がない。

そうしたときに出会い、支えてくれたのが、笠原さんだった。日本語教室の授業にとどまらず、正月、花見、節句、暑気払いといった機会には飲み食いしながら、皆に日本の文化や習慣について話をしてくれた。紅葉の季節には泊りがけの温泉旅行に出かけ、仲間と親睦を深めることができた。

今では日本語をほぼ完ぺきに習得した宮崎さんは、他の中国帰国者に日本語を教えたり、通院に付き添ったりするなど支援する側にまわっている。さらには、NPOの催し物の企画、発表会のスピーチ案作成、舞踏劇の脚本づくりと活動の幅は広い。なぜ、「中国残留孤児」という存在が生まれたのか。このことをもっと世の人々に知ってほしい、と彼は事あるごとに言う。

中国帰国者の心がわかると笠原さんは語る。1980年代から90年代、残留孤児の訪日調査が行なわれていた時期、どうして政府の高官らは空港に足を運ばないのかと思っていた。温かく迎えてあげることも大事なのではないのかと……。自分はよい人に恵まれて助けられ、そのおかげで歩き出すことができた。中国帰国者たちを支援し続けたのは、支えてくれた人たちの恩に報いたいという思いが根底にあったからだ。

笠原さんが書き溜めた手記の最後にはこう綴られている。

「少しばかり中国語を話す老人がわれわれ帰国者を応援してくれたと語り合い、思い出してくれれば、私は幸せなおじいさんだったと満足する。わが子と思うようなとても優しい方々と知り合い、晩年はとても幸せです」

筆者による中国残留孤児のより詳細なルポはこちらをお読みください