中国残留孤児に日本語を教え続けた、ある「先生」の回想

戦後74年、語られなかった物語
平井 美帆 プロフィール

自分が何者か知りたくて

笠原さんの隣にいるのは、宮崎慶文さん(74)。2002年から始まった国家賠償団訴訟の原告団に参加した後、当事者らによる「NPO法人 中国帰国者・日中友好の会」の立ち上げに加わり、仲間とさまざまな活動をしている。

「笠原先生は恩人ですよ」

3年ほど前、私に笠原さんのことを伝え、誕生日会に呼んでくれたのは宮崎さんだ。どこから見ても、人のいい日本のおじいさんにしか見えないが、中国帰国者のなかでも珍しい経歴の持ち主である。

 

「中国の政治、厳しいですよ」

過去をふり返るとき、宮崎さんは口癖のようにこの台詞を口にする。中国名、「閻慶文」。彼が養父母の手に渡ったのは、終戦の翌年5月、日本への引揚船の出港が始まった頃だった。字の読めない養母は働いておらず、養父は料理人。養父母は徹底的に真実を隠しとおし、経歴書や戸籍にも「漢民族」と記載されていたという。

貧しい暮らしながらも勉学に励み、1964年、中国の放送大学のトップ校、北京广播学院(現・中国伝媒大学)に進学した。もし日本人とわかっていたら、絶対に大学の審査は通らなかったと宮崎さんはふり返る。子どもの頃に日本人と噂されたことはあったが、大都市の大連と北京で何度か転居したため、批判や攻撃の的になることはなかった。

大学を卒業すると、文革時代の「勤労による思想改造」というスローガンの下、300人くらいの学生たちと河北省の農村に下放された。北京へ戻ると、今度は北京大学でヒンズー語を学ぶように命じられる。この頃結婚して二人の息子が生まれたが、1973年からはチベットに単身で送られた。中国政府にはインドとの争いごとに備えて、ヒンズー語の人材を育成する腹積もりがあったらしく、ラサで軍人の通訳、外国語の指導にあたった。

チベット自治区のラサに赴任した28歳の頃
(@MihoHirai)

最初に日本人と明かされたのは、30代前半の頃。5年にわたるチベットでの単身赴任後、北京の母校で職を得て、ようやく家族と落ち着いた生活が送れると思った矢先だった。

「もう大人になったのだから本当のことを伝えたかった」と真実を告げたのは、物心ついた頃から「おじさん」と慕っていた人物、邹成良(ゾウ・チャンリャン)さん。大連駅前で衰弱した赤ん坊の引き取り手を探していた日本人男性と遭遇し、直接父の手から自分を受けとったその人だった。父親は他に1人か2人の子どもを連れていたが、母親の姿はなく、身なりなどから北部から避難してきた開拓移民ではなく、満鉄(南満州鉄道)の関係者だと思われるという。

衝撃を受けたが、自分が何者かを知りたい。本当の親に会いたい。宮崎さんは秘密裏に、おじさんに肉親捜しを手伝ってもらうことにした。もし親が見つからないならば、このことは家族にも言わず、墓場まで持っていくつもりだった。

養母は何も語らぬまま、1982年に癌で亡くなった。養父もその5年後に癌で亡くなったが、亡くなる直前、病床でついに「おまえは日本人の子なんだよ」と打ち明けてきた。養父母が日本人であることを秘密にしたのは、自分の将来を思ってのことだと宮崎さんは心中を察する。

54歳のとき、北京にて養父母のお墓参り(@MihoHirai)