中国残留孤児に日本語を教え続けた、ある「先生」の回想

戦後74年、語られなかった物語
平井 美帆 プロフィール

身元未判明孤児という運命

誕生日会はおおらかで自由な雰囲気に包まれ、「満州娘」の次は誰かが中国語の歌を歌い出した。あまり日本語が話せない隣の女性に中国名を尋ねると、「王明」とひと言。57歳のときに日本に帰国したが、親は見つかってないという。ならば、彼女の幼少時の面影はたどることができる。肉親の見つかっていない日本人孤児の情報を、厚生労働省がネット上に公開しているからだ。

(~まだ見ぬ肉親を求めて~「身元未判明中国残留日本人孤児名鑑」:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hokabunya/senbotsusha/zanryukoji

整理番号「T043(平7)」。離別した地点は浜江省珠河県(旧満州)。終戦時の推定年齢は4歳。幼少時と帰国時の写真が左右に並び、おかっぱ頭の日本人の女の子が波乱に満ちた半生を送った軌跡がうかがえる――。笠原さんを頼って日本語教室に集まってきたのは、彼女のように「身元未判明孤児」と呼ばれる人たちが多い。

ひときわ歌のうまい女性は、中国帰国者の会の集まりでもよく美声を披露している波多野晶子さん(78)。彼女も親が見つかっておらず、中国名の「李晶波」からちなんで日本名をつけた。

 

終戦時の推定年齢は4歳。兄または姉の4人家族で、父親は関東軍の憲兵だった。両親と離ればなれになった状況からは、敗戦時の混乱が見てとれる。「一家は、浜江省哈爾浜市に住んでいた。終戦後、養家で会食中暴民が押し入り、父と養父(父の通訳)が連れ出され、行方不明になった。母が帰国する時、本人を養母趙素范に預けた」。

子どもの頃から歌が大好きだった彼女は、「前近歌舞団」という軍隊の女性音楽隊に入りたかったそうだ。16歳の頃の写真を見ると、今につながる明るい朗らかな雰囲気が伝わってくる。

しかし、その陰で、敵国の子として歩まざるをえなかった半生は壮絶なものだ。周りから日本鬼子といじめられ、養母は何度も引っ越しを余儀なくされた。歌舞団に入る夢も、出自が理由で叶わなかった。文化大革命時代には家族まで迫害され、何度も死のうと思ったが、幼いわが子を想って耐え忍んだ――。波多野さんはずっと、自分の国に帰って両親を探せる日が来るのを待ち続けていたという。1987年、46歳で永住帰国を果たしたときは「お母さん! やっと帰ってきたよ」と心の中で叫んだ。

彼女は自治体に依頼されて人前で生い立ちを語ったことがあるが、そのときの文章にこう表現している。

「ついに自分の国帰ってきました。私は父母に『ただいま!』と言って話がしたい。しかし私は本当の父母を探し出すことはできませんでした。これは私の一生で一番残念なことです。私は本当に親孝行したいです。一方、養母が私を育ててくれた愛情も忘れることはできません。命の恩人です」(原文のまま)