中国残留孤児に日本語を教え続けた、ある「先生」の回想

戦後74年、語られなかった物語
平井 美帆 プロフィール

中国帰国者支援の道へ

ここでいったん時計の針を戻してみよう。終戦後、中国東北部に取り残された日本人の子どもたちはどうなったのか。中国では国共内戦を経て、勝利をおさめた共産党が1949年10月に「中華人民共和国」を建国。一党独占体制の下、残された日本人や親日家とされた中国人は反日運動が起こるたび、批判や攻撃の的となった。

中国人養父母に育てられた孤児は、自分が日本人であることを知らずに育った人も多いが、どこかの時点で真実を知っても、中国人として生きるしかなかった。

日本が戦後、高度経済成長への道を突き進むなか、そうした子どもたちは祖国から半ば忘れられた存在だった。1972年に日中国交が正常化してからも、依然として孤児の援護に消極的な国の姿勢は変わらなかった。少しずつ重い腰の国を動かしたのは、山本慈昭など満州引揚者たちの粘り強い活動である。

1981年3月。第一次訪日調査団の47名が祖国の地を踏み、代々木の国立オリンピックセンターで肉親捜しが行なわれた。訪日調査は1999年まで続いたが、初期の頃は「中国残留孤児」の姿がひんぱんに報じられ、世間の注目を集めた。

1985年、笠原さんは64歳で工場をたたむことにした。自分の子どもたちも独り立ちし、余生を考えたとき、胸に去来したのは若き日の思い出、日中友好への想いである。かつて学んだ中国語を活かして残留孤児の力になろうと行動を開始し、支援団体「虹の会」の人たちとつながっていった。

名古屋で別れた陳さんに関する情報が耳に入ったのもこの頃だった。あれからまもなく太平洋戦争が起こり、もう二度と会えないと思っていたのに……。長い時を経て、あの大地につながる出会いに導かれていくようだった。

陳さんは母校の同窓会の招待で、1985年、戦後初めて日本の地を踏んでいた。「日中友好の使者がきた」と地元の新聞が報じたことから、名古屋在住の友人が知らせてくれたのだ。人づてに中国の住所を教えてもらい、すぐさま手紙をだすと、1週間後には本人から返事が届いた。陳さんは1944年に旧満州に戻って、牡丹江で衛生部の医師をしていた。「牡丹江市が外国人に開放されたのでぜひ来てください」と家族の写真が同封してあり、こう書かれていた。

「牡丹江市には戦後残った日本人の孤児がいるよ。ふだんはわからないように気をつけて生活しているけど、私には日本人の子どもとすぐわかる」

翌年、牡丹江で再開した二人は、残留孤児の支援という共通の目的に向かって交流するようになった。

 

80歳からの挑戦

「孤児たちは身元引受人になってくれる人がなかなか見つからず、困っている」

ボランティア活動を始めた頃、笠原さんは「虹の会」会長から打ち明けられた。

たとえ身元引受人が見つかっても、言葉ができないと信頼関係を築くのは難しく、うまくいっていない話も耳に入ってきた。身元引受人以外にも、住宅の賃貸や学校など、日本で暮らしていくは何事にも保証人が必要になる。笠原さんは多くの孤児の保証人を引き受け、呼び寄せ家族の入管手続きなども行なった。

帰国者と関わり続けるなか、もっとも痛感したのは不十分な日本語教育である。高齢の帰国者たちは病院にいってもうまく医師に説明できず、困っていた。そこで、笠原さんは西大井に自費で日本語教室を開くことにした。80歳からの挑戦である。

ボランティアの日本語教師の協力を得て、毎週土曜日に開き、出欠は自由。「自由に運営したい」と考え、補助金は一切もらわなかった。アットホームな個人経営の教室は8年にわたって続いた。

それから10年経っても、帰国者たちは必ず年に二回、6月と12月に都内のあちこちから西大井に集まって恩師を囲む。その中には牡丹江市の陳さんの紹介で、笠原さんが日本での身元引受人となった佐藤秀子さん(78、中国名・韓秀芝)もいる。陳さんはすでに亡くなったが、牡丹江で日本人孤児に日本語を教えるなど熱心に支援活動を行なっていたという。

先生の思い出話に耳を傾ける帰国者たち(@MihoHirai)