左から宮崎さん、笠原さん、波多野さん(筆者撮影)

中国残留孤児に日本語を教え続けた、ある「先生」の回想

戦後74年、語られなかった物語

98歳の恩師の誕生日会

東京大田区のとある中華料理屋の一角。丸テーブルに集まった人たちが、ひとりの老人の誕生日会を祝っていた。ケーキの上には「98」の数字のローソクが立てられている。

「先生、歌って」
「もうねえ、のどが痛いから」
「満州娘!」

両隣に何度もうながされ、しかたないなあというように誕生会の主役、笠原五郎さん(98)が歌いだすと、周囲は歓声をあげながら手をたたいた。

わたし十六 満洲娘

春よ三月 雪解けに

迎春花(いんしゅんほわ)が 咲いたなら

この日のために遠方から来る人もいる(@MihoHirai)

太平洋戦争に突入するおよそ3年前、1938年に日本で大流行した「満州娘」である。青春時代を旧満州(現・中国東北部)で過ごした彼にとって、17歳の頃に口ずさんだ懐かしい歌だ。笠原さんを「先生」と呼ぶのは、日本で長らく「中国残留孤児」と呼ばれてきた人たちである。

70代の「孤児」たちとひとりの日本人。日本語と中国語の入り乱れた不思議な空間には、ふたつの国のあいだで生き抜いてきた人々の想いが交錯していた。日本と中国の挟間で揺れ動いた人々の人生の軌跡と出会いを、かけ足で追っていきたい。

 

生還を果たすも、「赤」の調査

笠原さんは1921年、山形県東村山郡に生まれた。8歳のときに父親が病死し、一家の生活が傾いたことから、満州の親戚にあずけられた。関東軍主導の下、「満州国」の建国宣言(1932年)がなされてから約1年後のことだ。

「後妻の子どもだから追い出されちゃった。満州に金持ちの親戚がいたから、そこにあずけられた。向こうの学校(旧制中学校)にいったけど、山形のズーズー弁は、『どこの言葉だ』って受けつけないんだよ。学校いくの嫌になっちゃったよ」

後から母や兄も移住してきたが、満州では比較的裕福な暮らしを送ることができたという。撫順の中学校では「将来、ここで生きるんだ」と熱心に中国語を学び、現地の友だちも増えていった。

だが、世は軍国主義一色。満20歳になった日本人男性は全員、徴兵検査を受けなければならない。満州で徴兵検査を受けると、そのまま現地での入営を命じられた。せめて父の墓参りを済ませておきたい……。入隊直前、休暇をもらって母と故郷山形へ帰ることにした。

ひとりの「満州娘」と出会ったのは、南へ向かう汽車の中だった。「ここ空いていますか」と、前の席に若い女性が座った。当時、満州の女性はまだスカートを穿いていなかったのにスカート姿で、メガネをかけていたので、日本人かと思った。

その女性、陳春明さんは「満州国」留学生として名古屋の金城女子専門学校(現・金城学院大学)で学んでいて、夏休みの帰省を終えて吉林から名古屋に戻るところだという。母親も一緒だったためか陳さんは安心して日本語で話し、笠原さんがきれいな標準語の彼女と山形弁の母親の通訳をした。

山形へ帰省する理由を話すと「ああ、そうですか。心配ですね」とだけ返ってきた。釜山に着くと、船に乗りかえ、下関へ。旅を共にして名古屋駅でいよいよ別れるとき、陳さんはこんなふうに言った――「私が満州国の留学生とわかってからも、態度が少しも変わらず親切にしてくださった。本当にありがとう」。

その後、笠原さんは関東軍に入隊。軍の教育隊からロシア語を叩きこまれると、ソ連との国境守備隊に配置されて物資の買いつけなどを行なった。1945年夏に終戦を迎えると、武装解除されたが、そのままソ連によってシベリアに抑留されてしまう。ロシア語ができたことから、シベリアでは労務管理などの業務にまわされた。

4年以上の年月が過ぎ――1949年11月21日、ついに祖国に生還を果たした。しかし、ここからがあらたな試練の始まりだった。

「君は赤色だね。調査に素直に答えないと不利になるから、答えなさい」

引揚船「高砂丸」が舞鶴港に上陸すると一週間、アメリカの情報官に連日呼びだされた。ここでいう「赤色」とは、共産主義に傾倒したスパイを指す。帰国を引き延ばされてソ連に使われ、帰国したら今度はアメリカからスパイ容疑の調査である。頭にきた。故郷に帰ると「シベリア帰り」という言葉が流れ、周りから下げすまれた。

仕事を探そうにも3年以上抑留された者は共産教育を受けていると差別され、履歴書を出しても別扱い。公務員はだめ。会社もだめ――。「今に見ていろ。大陸育ちの力を発揮して見返してやる」と悔しさを胸に故郷を離れ、先に母を連れて引き揚げていた兄を頼って上京した。

しばらくして、兄が紹介してくれたのはめっき工場の社長。温かい言葉をかけてくれた。「一生懸命働いてくれればよい。明日から来なさい」。30歳のゼロからの出発だった。そこで見習工として5年ほど修業を積んだ後、自分の工場を立ち上げ、軌道に乗せていった。