公約は破れ?「選挙と群衆」の考察

【5分de名著】ル・ボン『群衆心理』④
講談社学術文庫 プロフィール

あらゆる人間は、同じ程度に無智になる

さて、それでは、制限選挙―何ならば、有能者限定選挙とでもいおうか―が行われるならば、群衆の投票が改善されるであろう、と考えるべきであろうか? 私は、一時たりとも、これを是認することができない。その理由は、すでに述べたとおり、あらゆる集団は、その構成如何を問わず、精神的に低下するからである。

 

くりかえしていうが、群衆中の人間は常に平等化し、そして、一般的な問題については、アカデミー会員四十人の投票が、庶民四十人の投票よりも優れているわけではないのである。例えば、帝政の復活に投票したので普通選挙があれほど非難されたが、もしその場合投票者たちが、もっぱら学者や文人のうちから選出されたにしても、その結果が異ならなかったであろう、と思う。

一個人が、ギリシア語や数学に通じているという事実も、建築家とか獣医とか医師とか弁護士とかであるという事実も、感情の問題に関しては、その個人に特別の知識を与えはしないのだ。わが国の経済学者たちはすべて、学識ある人々で、たいていは教授やアカデミー会員である。例えば、保護貿易主義のような一般的な問題で、彼等の意見の一致を見たものが、ただの一つでもあるか? 多くの未知数に満たされた社会問題、神秘な論理、つまり感情の論理に支配される社会問題の前では、あらゆる人間は、同じ程度に無智になるのだ。

そこで、たとえ学識豊かな人々だけで選挙団体をつくりあげるにしても、その投票は、今日の投票よりも優れたものにはならないであろう。そういう人々も、感情と党派心とによって導かれるであろう。そのために、現在の困難が一つでもとり除かれるわけではないし、かえって、ある種の仲間(カスト)の苛酷な圧制が必ず加わるにちがいないのである。

制限選挙にせよ普通選挙にせよ、また、共和国あるいは君主国で盛んに行われるにせよ、フランス、ベルギー、ギリシア、ポルトガルあるいはスペインで実施されるにせよ、群衆の行う選挙は、どこででも同様であり、そして、しばしば選挙は、種族の無意識的な要求や願望の現われである。選挙された人々の平均的なものが、各国民にとって、その種族の平均的な精神を現わす。この種族の精神は世々代々ほぼひとしいのである。

こうして、またもやわれわれは、すでにたびたび出てきた種族性という根本的観念と、この観念から派生したもう一つの観念、すなわち、制度や政体は、国民の生活上極めて微弱な役割しか演じない、という観念とに帰着するのだ。国民は、とりわけ種族の精神、すなわち祖先伝来の残存物―種族の精神は、これの総和である―によって導かれる。種族性と複雑に入りくんだ日常必要事、これこそが、われわれの運命をつかさどる神秘な支配者である。


⑴アルマヌ党とは、フランスの印刷工出身でジャーナリスト、ジャン・アルマヌ(一八四三年―?)が一八九〇年に組織した政治団体である。彼は、一八七一年コミューヌの乱に参加したため、無期懲役に処せられたが、のちに特赦に浴した。(訳者)
⑵エドモン・シェレールは、フランスの政論家、文芸批評家(一八一五―八九年)。神学博士、代議士になり、一八六一年「ル・タン」紙の主筆となった。(訳者)
⑶委員会は、クラブ、組合など、その名称の如何を問わず、群衆の勢力から生ずる種々な恐るべき危険のうちの一つを形づくっている。事実、委員会は、圧制の最も非個人的な、従って最も抑圧的な形を現わす。委員会を牛耳る指導者たちは、集団の名において語り行動すると見なされているから、一切の責任をまぬかれて、何事も意のままになすことができる。最も横暴な専制君主でも、大革命時代の委員会が発した追放令のようなものは、夢想だにしなかったにちがいない。「委員会は、国民公会の多くの議員を殺したり、それを喰いものにしたりした」とバラーがいっている。ロベスピエールは、委員会の名において語り得たあいだは絶対的な支配者であった。この恐るべき独裁者が、自尊心にかかわる問題のために委員会と手をきった日こそは、彼の滅亡の期を告げるものであった。群衆の支配とは、委員会の支配、従って指導者の支配にほかならない。これ以上に苛酷な専制は想像されないであろう。(著者)