公約は破れ?「選挙と群衆」の考察

【5分de名著】ル・ボン『群衆心理』④
講談社学術文庫 プロフィール

群衆は強制された意見を持つだけである

議論が選挙人たちの心に及ぼす影響ということでは、これについてなお疑念をいだく者があれば、それは、選挙上の集会の報告を読んだことがないからにちがいない。その種の集会では、断言や悪罵がかわされ、ときにはなぐり合いも見られるが、決して議論はかわされない。一時でも静まりかえるときがあるとすれば、それは、気むずかしやの列席者が、発言して、聴衆を常に喜ばせる、あの難問を候補者に提出しようとするときである。

 

しかし、反対派の満足も、永くはつづかない。なぜならば、その発言者の声が、やがて相手側の発する怒号で蔽われてしまうからである。次にかかげる報告のごときは、公開集会の典型と見なすことができる。この報告は、ほかにも幾百となくある同様の報告中から選び出したもので、私は、これを日刊新聞から借用した。(引用省略)

この種の討議は、選挙人たちの属するある階級にのみ特有なものであって、選挙人の社会的地位に起因する、などと想像してはならない。およそ名目のはっきりしない会合ならば、たとえそれがもっぱら教育のある者から成るにしても、討議は、ややもすれば同様の形をおびがちである。すでに示したように、群衆中の人間は、精神的に平等化する傾向があり、そして、その証拠は、常に見出される。例えば、学生だけから成る集会の報告を次にかかげよう。

「喧騒は、夜のふけるにつれて、ますます盛んになるばかりであった。妨害されずに二言と発言できた弁士は、一人もなかったと思う。怒号が、こちらから起こるかと思えば、あちらからも起こり、さてはいっせいに四方八方から起こるのであった。拍手する者あり、口笛を鳴らす者ありで、激論が、多くの聴衆のあいだで闘わされた。ステッキをふりあげておどす者もあれば、床板を踏み鳴らす者もあった。妨害者どもは、『そとへ出ろ!』とか『演壇にのぼれ!』とかいう叫び声で責め立てた。

C……君は、その協会に対して、いまいましくて卑怯だとか、奇怪で下劣で、金銭ずくで執念深いとかの形容語を浴びせかけて、それをうち壊してやると公言した。云々……」

こういうような状況にあって、選挙人の意見がどうしてつくられるのかと、不審にも思われる。しかし、このような疑問を提出することからして、集団が持ち得る自由の度合について、異様な錯覚をいだいていることにほかならないであろう。

群衆は、他から強制された意見を持つだけで、自ら考えぬいたうえでの意見を持つことはないのだ。選挙人たちの意見や投票は、選挙委員会の掌中に握られているのであって、この委員会を牛耳るのが、多くの場合、数人の酒屋であり、そういう連中は、労働者たちに掛売をしてやるので、それに対して非常な勢力を持っている。

民主主義の最も果敢な擁護者の一人であるシェレール氏2が、こう書いている。「諸君は、選挙委員会の何であるかを御存じか? それは、ほかでもない、わが国の諸制度の鍵であり、政治機関の主要部分である。フランスは、今日、種々な委員会によって支配されている3」と。

従って、候補者が、適当な人物であって、しかも十分な資力を持っていさえすれば、委員会を動かすのは、さして困難なことではない。贈賄者たちの自白によれば、ブーランジェ将軍を連続的に当選させるためには三百万フランで十分であったという。
これが、選挙上の群衆の心理である。それは、他の群衆の心理と同じであって、それよりもよくも悪くもないのである。

旋風に議論を吹きかけるのも同然

そこで、前述したところから、普通選挙に対して何らの結論をもくだすまい。もし、普通選挙の運命如何を決めねばならないとすれば、私は、むしろ普通選挙を現状のままで保存したいと思う。それは、まさに群衆心理の研究からひき出される実際的な動機からである。私は、まず普通選挙の欠点を指摘しておいてから、その実際的な動機というのを述べよう。

いうまでもなく、普通選挙の欠点は、あまりにも明瞭であるから、誰の眼にもつくはずである。多くの文明が、ピラミッドの頂点をなす少数の優秀な人物の所産であったことに異議をさしはさむ者はないであろう。そのピラミッドの段階が、精神的価値の減退するにつれてひろがって、一国民の下層部を現わすのである。

確かに、文明の偉大さが、単に多数者を現わすにすぎない劣等分子の投票如何にかかっているわけはない。さらに、群衆の投票は、しばしばはなはだ険呑なものであるにちがいないのだ。わが国では、そのためにたびたび外国の侵入を蒙ったことがあるし、また、社会主義の勝利によって、民衆の主権掌握の空想が、確かに、われわれフランス人に、はるかに高価な犠牲を払わせることになるであろう。

しかし、こういう異論も、理論的には優れているにせよ、教義に化した思想の持つ不可抗的な力を思い浮かべるならば、実際上には全くその効力を失ってしまうのである。群衆の主権掌握の教義は、哲学の観点からすれば、中世の宗教上の教義と同様に、ほとんど擁護しがたいものではあるが、今日では絶対的な力を具えている。

従って、この教義は、かつての宗教思想と同様に、攻撃できないのである。かりに、近代の自由思想家が、一種の魔法力によって、中世のさなかに立ちもどされた、と仮定してみたまえ。その場合、諸君は、その自由思想家が、当時世にはびこっていた宗教思想の絶大な権力を前にして、これと闘うことを試みるであろう、などと思うか?

かりに、悪魔と契約を結んだとか、魔法使の夜宴(サパ)に出入りしたとかいう罪名で、審判者に捕えられて、火あぶりにされようとも、その自由思想家は、悪魔や魔法使の夜宴の存在を否定しようなどと考えたであろうか?

群衆の信念に対して議論を試みるのは、旋風に議論を吹きかけるのも同然である。今日、普通選挙という教義は、かつてキリスト教の教義が持っていたような力を具えている。文人論客は、ルイ十四世も身に受けなかったほどの尊敬や追従の言葉で、普通選挙について語る。従って、宗教上のあらゆる教義に対すると同様の態度をもって、これに臨まねばならない。これらの教義に作用を及ぼすことのできるのは、ただ時のみである。

この教義には、外見上それ相当の根拠があるだけにいっそう、これを動揺させようと試みるのは、無益なことであろう。

「平等の時代には、人々は、みな類似しているから、たがいに少しも信用はしない。しかし、この類似することから、かえって、公衆の判断には、ほとんど無限の信頼を抱くようにもなる。万人が同じ程度の教養を具えている以上、真理が最大多数の側に存在しないなどとは、とうてい真実らしくは思えないからである」とトックヴィルが喝破している。