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断言・反覆・感染。これが群衆を動かす手口だ

【5分de名著】ル・ボン『群衆心理』②
今月の「講談社学術文庫」がお届けする「名著のチラ読み」企画は、ギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』。第二回は第二篇第三章「群衆の指導者とその説得手段」から。群衆は指導者に従う本能的要求を持つと述べる著者が、いかにして人々は動かされてしまうかを具体的に分析しています。

真実の修辞形式はただ一つ、反覆あるのみ

群衆を一時でもひきつけて、宮殿を掠奪するとか、防塞を死守するとかいうような、何らかの行為を遂行させるときには、すばやい暗示によって、その群衆に働きかけねばならない。

 

ここでもまた、最も強力な暗示は、実例である。そのときには、群衆が、ある状況によってすでに下地ができ、かつ群衆をひきつけようと望む人にしても、ある資格を具えていることが必要である。この資格を威厳と名づけて、のちほど考察しよう。

群衆の精神に、思想や信念―例えば、近代の社会理論のような―を沁みこませる場合、指導者たちの用いる方法は、種々様々である。指導者たちは、主として、次の三つの手段にたよる。すなわち、断言と反覆と感染である。これらの作用は、かなり緩慢ではあるが、その効果には、永続性がある。

およそ推理や論証をまぬかれた無条件的な断言こそ、群衆の精神にある思想を沁みこませる確実な手段となる。断言は、証拠や論証を伴わない、簡潔なものであればあるほど、ますます威力を持つ。あらゆる時代の宗教書にせよ法典にせよ、常に単純な断言の方法を用いたのである。何らかの政治上の立場を擁護すべく求められる政治家とか、広告で製品を宣伝する産業家は、断言の価値を心得ているのだ。

しかしながら、この断言は、たえず、しかもできるだけ同じ言葉でくりかえされなければ、実際の影響力を持てないのである。真実の修辞形式はただ一つ、反覆ということがあるのみ、とナポレオンがいった。断言された事柄は、反覆によって、人々の頭のなかに固定して、遂にはあたかも論証ずみの真理のように、承認されるにいたるのである。

反覆が、極めて見識ある人々にもどんなに強く作用するかを見れば、反覆の群衆に及ぼす影響の程度は、十分に納得できる。事実、反覆された事柄は、行為の動機がかもし出される無意識界の深奥部に、結局きざみつけられるにいたるのである。われわれは、しばらくのちには、反覆された主張の発言者が誰であるかをも忘れて、遂にそれを信ずるようになる。

これと同様に、広告の驚くべき力も説明される。われわれは、最上等のチョコレートはどこそこのチョコレートである、と百回も読んだときには、そういう噂を頻々(ひんぴん)と耳にしたような気がして、遂にはそれを固く信ずるようになるのだ。

また、どこそこの粉薬が、錚々たる人物たちの非常な難病をも治した、という証言を千回もきくと、それを信じて、われわれも同種の病気にかかったときには、その粉薬を試用してみようという気になる。

甲は不埒極まる破廉恥漢であって、乙は極めて誠実な人であるということが、同じ新聞にくりかえし述べられているのを見ると、われわれは、いうまでもなく、この二つの形容語が逆に入れかわっているような、反対意見の他の新聞をしばしば読みさえしなければ、そのことを固く信ずるようになる。断言と反覆に対抗できるほど強力なものは、これまた断言と反覆あるのみである。

少数の個人の行動を、無意識な多数者が模倣する

あらゆる補助を克ち得ようとするある種の金融事業について起こることであるが、ある断言が、十分に反覆されて、その反覆によって全体の意見が一致したときには、いわゆる意見の趨勢なるものが形づくられて、強力な感染作用が、そのあいだに働くのである。群衆の思想、感情、感動、信念などは、細菌のそれにもひとしい激烈な感染力を具えている。

この現象は、群をなすときの動物にさえ認められるのである。厩にいる一頭の馬の悪癖は、同じ厩の他の馬によって、ただちに模倣される。数頭の羊の怖気やとり乱した動作は、ただちに群全体にひろがる。感動の感染ということによって経済恐慌の突発する理由は説明される。それのみならず、例えば広場恐怖症(アゴラフオビラ)のような、人間から動物に伝わる種々な精神錯乱の症状すらあげられる。

感染は、個人が一つの場所に同時に存在することを必要としない。人々の心を同じ方向に向けて、それに群衆特有の性質をおびさせるある種の事件の影響を受けるとき、特に、さきに考察した諸種の間接原因によって人々の心に下地のできている場合に、感染は、遠く離れているあいだにも行われることがある。この理由から、例えば、一八四八年の革命の勃発が、パリから起こって急激にヨーロッパの大部分に波及し、多くの君主国を震撼させたのである1

社会現象において、多大の影響力があるとされている模倣というものも、実は感染の単なる結果にすぎないのである。私は模倣の役割については、他の箇所で説いたから、ここでは、久しい以前に述べたことを転載するにとどめよう。これは、そののち他の著者たちによって敷衍されたものである。

「人間は、動物と同じく、本来模倣性に富んでいる。模倣は、人間にとっては一種の要求となっている。ただし、いうまでもなく、この模倣が容易である、ということを条件とする。流行の影響力が生れるのも、この要求からである。

意見、思想、文学的表現に関することにせよ、あるいは単に服装に関することにせよ、幾ばくの人が、あえて流行の力をまぬかれようとするか?群衆を導くのは、模範(モデル)によるのであって、議論によるのではない。いずれの時代にも、少数の個人が行動を起こすと、無意識な多数者が模倣する。

しかしながら、それらの個人は、一般に認められている思想からはなはだしく遠ざかってはならない。それから遠ざかる場合、その個人を模倣するのは、あまりにも困難となり、従ってその影響は、皆無となるかもしれないからだ。まさにこの理由によって、あまりにも時勢にぬきんでている人々は、一般に当代に対して何の影響をも及ぼさないのである。懸隔(へだたり)が、あまりにも大きいのだ。ヨーロッパ人が、すべての点で優れている文明を持っているにもかかわらず、東邦の諸民族に微々たる影響しか及ぼさないのも、同じ理由によるのである。

過去と、人間相互のあいだの模倣、この二重の作用は、同国、同時代のあらゆる人々を、結局極めて類似したものにする。哲学者、学者、文人など、その作用を最もまぬかれているはずと思われる人々においてすら、思考や文体が、一種同系統の体裁をおびて、それが、彼等の所属する時代をただちにわからせるほどである。誰かある人と一時対談してみれば、その読みものや平常の業務や生活環境を徹底的に知ることができる2