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SNS炎上時代を予見した?社会心理学の名著

【5分de名著】ル・ボン『群衆心理』①
「講談社学術文庫」の豊富なラインナップからお届けする「名著のチラ読み」企画、今月はギュスターヴ・ル・ボン『群衆心理』を読んでみましょう。革命や独裁者の出現経験した19世紀のおわり、「群集」という存在の非合理性について徹底的に考察したこの書物は、社会心理学研究の記念碑的名著であると同時に、現代のわれわれにもきわめて示唆深い一冊です。連載1回目は第一篇第二章第二節「群衆の暗示を受けやすく、物事を軽々しく信ずる性質」から。

荒唐無稽な伝説が簡単に流布される理由

さきに、群衆の一般的性質の一つが、過去に暗示を受けやすいことであると述べ、そして、どのような人間の集団にあっても、暗示がどんなに感染しやすいかを示した。この事実は、感情が速やかに一定の方向へ転換することの理由を説明する。

群衆は、どんなに不偏不党と想像されるものであっても、多くの場合、何かを期待して注意の集中状態にあるために、暗示にはかかりやすいのである。一度暗示が与えられると、それは、感染によって、ただちにあらゆる頭脳にきざみこまれて、即座に感情の転換を起こすのである。暗示を与えられた者にあっては、固定観念が行為に変化しがちである。

宮殿に放火する場合にせよ、あるいは献身的な事業を遂行する場合にせよ、群衆は、同一の無造作をもって、それにうちこむ。すべては、刺戟の性質如何によるのであって、単独の個人の場合のように、暗示された行為と、その実現に反対する理性作用全体とのあいだに存する関係如何には、もはやよらなくなるであろう。

それゆえ、群衆はたえず無意識の境地をさまよい、あらゆる暗示に従い、理性の力にたよることのできない人々に特有なはげしい感情に活気づけられ、批判精神を欠いているから、何のことはない、物事を極度に信じやすい性質を示すのである。群衆にとっては、およそ真実らしくないと考えられるものなどは、存在しないのである。世にも荒唐無稽な伝説や説話が、どんなに容易に生み出されて普及されるかを理解するには、このことをよく記憶せねばならない1

群衆のうちに、極めて容易に流布する伝説が生み出されるのは、単に、物事を頭から信じこむ性質の結果とばかりはいえず、集合した個人の想像力によって、事件が驚くべき変形を受ける結果でもある。極めて単純な事件でも、群衆の眼にふれると、たちまち歪められてしまう。

群衆は、心象(イマージユ)によって物事を考える。ところで、心象がいったん喚起されると、今度は最初のとは少しも論理的関係のない、他の一連の心象が喚起されてくるのである。何かある事実を思い出すと、往々妙な連想が起こってくることがあるのを思えば、このような心理状態も容易に納得できる。

理性がこういう心象の支離滅裂さを示すのであるが、群衆にはそれがわからないのである。想像力の変形作用が事件につけ加えるものを、群衆は事件そのものと混同する。そして、主観と客観とを区別する能力を持たないから、心中に喚起された心象が、多くは観察された事実と縁遠い関係しか有しなくても、その心象を現実のものとして受けいれるのである。

群衆を構成する人々の気質が多種多様であるから、群衆がその目撃する何らかの事件に加える変形も無数であって、その意味も区々(まちまち)であるにちがいないと思われよう。ところが、実際はそうではない。感染の結果、この変形は集団のあらゆる個人にとって、同じ性質、同じ意味のものとなる。彼等の一人によって認められた最初の変形が、感染する暗示の核心となるのである。

聖ジョルジュ2は、十字軍士一同の眼に、エルサレムの城壁に姿を現わしたように見えたのに先だって、確かに居合わせた人々のうちの誰か一人によって、認められたにすぎないのだ。この奇蹟は、合図で告げられると、暗示と感染とによって、たちまち一同に受けいれられたのである。

これが、歴史上にしばしば見られるあの集団的錯覚のからくりなのだ。そして、この錯覚は、幾千人という人間によって認められる現象であるから、正真正銘のことであるための、型どおりの性質はすべて具えているかのように思われるのである。

群衆を構成する個人の精神的素質も、この原理と抵触しない。いったい、このような素質は、重要ではない。個人が群衆に加わるやいなや、無学者も学者も、等しく観察の能力を失うのである。