東京国際フォーラム模型製作
きっかけは「早起き」

順調だと思っていた矢先に、不況がニューヨークを襲った。再び仕事を失った宮川さんは、また人のツテで、新しい仕事を得ることになった。

――家具屋は当時の不況の煽りを受け、1992年に倒産しました。どうしようかと困っている時に、その家具屋の同僚スティーブン・ロジャースが、有名な建築家ラファエル・ヴィニョリの模型室での仕事を見つけました。そこで彼の建築事務所を訪れると、総合文化施設の「東京国際フォーラム」の模型を作っていました。巨額の予算を費やしたプロジェクトの模型に感銘を受けていると、たまたま居合わせたマネージャーに気に入ってもらい、そこで僕も働くことになりました。

日本の東京国際フォーラムをはじめ、世界中の建築物で多くの賞を受賞している建築家・ラファエル・ヴィニョリ。写真は2010年、ダイアン夫人とレッドカーペットにて Photo by Brian Killian/WireImage/Getty Images

紹介で得た次の仕事場で、宮川さんは、人並みに以上に働くことで自分の居場所を築くことになった。

――ヴィニョリの事務所には模型を切る専用の部屋があったのですが、あまりにも多くの人が機械を使うので、常に順番を待っている状態で、仕事が全く進みませんでした。そこで毎朝5時に出社して、他の人が出社する9時まで機械を使い、模型を切りました。9時からは模型を組み立てるだけでいいようにしていたのです。

ヴィニョリは東京国際フォーラムの件で、日本とのやりとりがあったので、いつも朝早く出社していました。次第に彼と挨拶をするようになりました。また一番複雑な部分の模型の担当を志願してやっていたので、ヴィニョリに工程を説明するうちに、彼にも才能を認められるようになりました。

その他大勢の職人から、東京国際フォーラムの模型製作担当に抜擢された 写真提供/宮川剛

模型が完成すると、マネージャーに昇格しました。ヴィニョリのスケッチが完成すると、僕が3Dの模型を作る。当時のヴィニョリのスケッチは、チャコールで描かれていたので抽象的。それを僕が具現化し、このプロセスは、デザイナーとして素晴らしいトレーニングになりました。

ヴィニョリの事務所で8年間、日本で体験した現場監督以上に過酷な作業をしました。建築業界は残業が当たり前で、特にデザインコンペに応募する前は、深夜過ぎまでかかる過酷な労働があったので、事務所に泊まることもしょっちゅうでした。残業が2週間で 140時間になったこともあります。だけど、楽しかった! ものを作ることが好きでたまらなかった。コンペにもよく勝ちました。