大手ゼネコンを辞めてNYへ

東京理科大学建築学科を卒業したあとは、人並みに企業に就職した。

――ゼネコンに就職しました。建築学科を卒業すると、たいてい建築事務所に就職するものですが、 その道はお金が儲からないことで有名で、『30歳になるまではコートが買えない』と先輩たちから言われていました。その上、残業も多いと聞いていました。建築現場に行くのが好きだったので、工事全体をとりまとめることができる、ゼネコンの会社に就職することにしました。

4年間、建物が実際に立つ工程をじっくり見ました。昼は工事現場を回り、夜は図面を書く。忙しい日々でしたが、残業代がちゃんと加算されたので、お金が貯まりました。一生懸命働いたので、1年間留学してもバチはあたらないと思い、渡米を決心したんです。

貯まったお金でまずは英語学校に行くためにニューヨークにやってきたのは、1989年、27歳のときだった。

――日本で仕事を辞める前に、ニューヨークの語学学校に入学の申請をしたんです。渡米の2ヶ月前には英語のカセットテープやラジオ講座を聞いて、猛勉強しました。渡米時には、多少の英会話ができるようにはなっていました。

語学学校では宿題が楽しくて、張り切って取り組んでいました。母親について書くエッセイの課題などがあり、面白かったです。先生にも恵まれました。

トランプ以前、ビザが下りた時代

1年の学生生活のあと、生活資金は底をついた。しかしその頃には、宮川さんはすっかりニューヨークに魅せられていた。そこで、キャリアのスタート地点となる仕事を探した。

――帰国はしたくなかったので、仕事を探しました。そんな時、たまたま家具屋を営む同級生の叔父さんを紹介されたんです。「ステファン・ローラン」という家具屋で、アメリカで初めて仕事が見つかりました。時給は1991年当時の最低賃金、5ドルでした。その時僕が持っていたのは学生ビザだったので、現金で給料をもらっていました。

今ではアメリカで大学や大学院の学位を持っていないと、「H1-B」と呼ばれる就労ビザはおりませんが、当時は語学学校を修了しただけで発行されました。またソーシャルセキュリティー・ナンバーと呼ばれる社会保障番号も、語学学生の身で取得することができました。

今だったら考えられませんが、当時「いい加減な事務所があり、そこでは簡単に発行してもらえる」という噂があったんです。そこで某大手の航空会社のカスタマーセンターに電話して問い合わせると、「基本的に私どもはそのようなサービスは行っておりませんが、噂では、〇〇の事務所は比較的簡単だと聞いております」と、親切にも場所を教えてくれました。その事務所に行くと、(社会保障番号を)いとも簡単に取得することができました。

ソーシャルセキュリティー・ナンバーがないと、就労することが難しいので、学生でありながら仕事ができるようになったことはラッキーでした。

「ステファン・ローラン」は、ハイエンドなブランドを顧客に持つ家具メーカーだったので、ブティック用に作る家具は難しかったけれど、作ることが楽しかった。徐々に仕事を覚えて、オーナーにも僕の実績を認めてもらえるようになった頃、「これは僕の天職だ」と感じました。