「生まれた環境」による学力差を縮小できない〈教育格差社会〉日本

人々が緩やかに「隔離」された社会
松岡 亮二 プロフィール

一方、学力選抜と志望校選択を通して学区内の低SES家庭出身の15歳を集めたのが低ランク高校だ。大学進学意欲は低く、学習時間ゼロの割合が高く、放課後は学習以外のことに時間を使い、授業に規律はなく、学ぶことに喜びを見出せず、学校への帰属意識も低い。

「やる気がない」と非難するのは簡単だが、低SESを背景に小中学校で成功体験を積み重ねることができずに、受験を経て「似た」生徒が同じ校舎に集められた以上、これらの「学校文化」が形成されるのは不思議なことではない。このような「底辺校」では親の支援を感じている生徒の割合が低く、教師にも期待されていないし、退学が具体的にあり得る選択肢になっている。

このように、日本の高校教育制度は「生まれ」によって生徒を各学校に隔離し、異なる教育空間の中で卒業生を見本として進路を自発的に選ぶように促す社会化装置なのだ。

 

"教育の機会均等"というファンタジー

日本の義務教育制度は国際的には平等主義的として評価されている。学習指導要領によるカリキュラムの標準化、地方への財政的支援、教員免許制度などによって、日本のどの地域であっても「一定」の質が保障されているからだ。

「みんな」が学習指導要領準拠の教科書で学び、似たような桜並木と入学式、同じような種目の運動会、合唱や証書の授与を含む卒業式という演出があれば、機会が「等しく」与えられたという幻想を事実として認識する人が増えても不思議ではない。

ただ、これらは実質的な「教育の機会均等」を意味しない。SESによって住む場所が偏っているので、(各家庭のSESを背景にした)同級生の学力や通塾・学習行動、親からの期待など広い意味での教育環境の学校間格差が義務教育にも存在する。「生まれ」育った家庭と居住地域によって、教育環境として相対的な有利さ・不利さが地層のように細かく折り重なっているのが教育格差社会「日本」なのだ。

義務教育で「生まれ」による学力格差を縮小できないまま志望校選択を伴う高校受験を行い、結果的に「生まれ」で15歳の子供たちを異なる学校に隔離する。受験という「能力」選抜を経ているので、「生まれ」ではなく、「能力」によって各人が「適した」高校に通うという見做しが成立する。そして次の教育「選抜」である大学受験によって、また「似た」「生まれ」の人ばかりが同じキャンパスに集まることになる。