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真に目指すべき坐禅の心とは?

「七色の後光」ではなく「木や石の置物」へ
南 直哉 プロフィール

ある夏、法事で寺に泊まった翌朝のことである。本堂で坐禅をしていたら、どこからか野良猫が入ってきた。抜き足差し足、奥座敷の方から、警戒感を漲らせながら次第に本堂の入り口に近づいてくる。そして、段差のある敷居に片方の足をかけた刹那、猫は私の方をハタと見た。

 

10数秒ばかり、その猫は固まったように微動だにせず、私を真正面から見ていた。次の瞬間、サッと体を180度回して、来る時より聊か早足で出て行った。

「ついに猫も避ける坐禅になったか!」

30歳半ば、修行も10年を過ぎていたが、愚物の錯覚と妄想はそう簡単に止まない。

目指すべきは「非思量」の坐禅だった

1993年、永平寺は新貫首に93歳の宮崎奕保禅師を迎えた。当時最高齢の就任で、坐禅一筋に生涯を貫き通してきた大師家として、宗門の尊崇を一身に集めていた。

実は、私は入門1年目のとき、そのとき別の役職をなさっていた禅師が坐禅堂に向かう際、たまたまその前を横切った(前といっても、15メートルはあった!)。すると、ただ横切ったというだけで、古参和尚から烈火のごとき勢いで叱られた。

そういう「因縁の人物」であるから、仕事でない限り、私はなるべく身辺に近づかないようにしていたのだが、ある朝、役目として坐禅堂に入り、修行僧と共に坐る禅師の姿を拝見する機会があった。

その時の衝撃は今も忘れない。私はやはり漠然と、七色の後光の刺すような、荘厳な坐禅姿を想像していたのである。

ところが、目に映ったのは、まるで木か石でできた置物である。息をしている気配さえない。なのに、異様な存在感がある。

それは他を圧倒するような、力が外に放射されるような存在感ではなく、見る者の視線を吸い込んでいくような、目を離すのが惜しいような、そんな風情だった

私はつくづくと悟った。自分の坐禅は方向を間違えた。道元禅師の言う「非思量」の坐禅は、禅師の坐禅なのだ。

故事がある。昔、修行者が山中で坐禅していたら、そのあまりに見事な坐相に天人が感心して、天から下ってお供え物をした。
それを偶然見ていた男が、坐禅から立った修行僧に、

「すごいですねえ! 天からお供えが来ましたよ!!」

すると修行僧、

「天人に見えるようじゃ、自分の修行はまだまだだな」

後光だのオーラだの、猫が避けるなどと言っているうちはダメなのだ。以後10年、私は一から自分の坐禅を再検討したのである。
 
さて、新刊本の帯写真。これを撮影した直後、坐禅を実際に見るのは初めてだというカメラマン氏が言った。

「息してたんですか? 生きている感じがないですよ」

はたして禅師の坐禅の足元くらいには及んだのだろうか。