反抗期の代わりに表れた摂食障害

ところで、美千代さんの人生を美千代さんの手から引き離そうとしたのは誰か。まっ先に思いつくのは家庭教師・徹さんである。徹さんの行きすぎた指導は、家庭教師による教育虐待と呼べるだろう。しかしそれならば、恐ろしい家庭教師の支配が終われば解放感を味わうはずだ。それなのに、徹さんの指導が終わってから3年もの間、美千代さんは「氷に閉ざされた世界」にいるように感じていた。

私は恐る恐る聞いてみた。「高校時代、摂食障害のような症状が出たことはありませんでしたか?」。美千代さんはびっくりした表情を浮かべた。

「そう言われてみれば、ありました。完全に忘れていましたけれど、ありました」 

いわゆる過食症や拒食症のような摂食障害は、心のバランスを崩しているサインとして、思春期の女性に出ることが多い。原因の多くは母子関係。いわゆる「母娘クライシス」だ。母親という絶対的存在の重圧に耐えられず、そのストレスのはけ口として過食や拒食に走る。無意識が発する一種のSOSサインである。 

美千代さんは高校生のころ、パン一斤を一気に食べては嘔吐することをくり返していた。 ただの氷をガリガリかじって食べるのも癖のようになっていた。また、毎日紅生姜を一袋 買ってきて、それをわざわざ風呂場に行って食べた。風呂場の〝匂い〞が重要だった。湿ったかび臭い匂いの中で紅生姜を一袋食べると、心が落ち着くのだ。そのことを美千代さんは忘れていた。無意識的にその過去を葬り去っていたともいえる。

忘れていたSOSを思い出して、美千代さんはさらに話し出した。「考えてみれば、私には反抗期というものがありませんでした。母親が言うことは絶対でした」。

美千代さんの母親はどちらかといえば娘の話をちゃんと聞かない、娘の気持ちを理解しないタイプの親だったようだ。美千代さんが塾に通いたいと言ったときも、高校受験の志望校を決めるときも、美千代さんの話を聞いていなかった。学校に履いていく靴下一つを買うにしても、「それはダメ」など自分自身の思い込みにこだわり、美千代さんの話を聞こうとしなかった。美千代さんはいつも「自分は尊重されない存在」と感じていた。

母親は、娘を自分の思い通りにしようと意識的に考えていたわけではない。しかし無意識のうちに、自分の思い込みで娘を支配していた。美千代さんは、母親が無意識のうちにつくり上げてしまった価値観の檻の中にいた。美千代さんが「氷に閉ざされた世界」と表現した閉塞感の正体は、それだったのではないかと私は思う。

親が無意識のうちにつくり上げた価値観の檻は誰にでも存在する。しかし思春期に当たる時期に反抗期を経験し、その檻を打ち破る。それが一人の精神的に自立した人間になるために欠かせない、成長のプロセスだ。美千代さんにはそれがなかった。美千代さんのケースは、過干渉な母子関係が家庭教師を巻き込む形で表象した教育虐待といえるかもしれない。

元家庭教師が今度は自分の子を…

徹さんは結局、美千代さんの義理の兄になった。それほど頻繁に顔を合わせるわけではないが、付き合いは一生続く。 私はもう一つ気になって美千代さんに尋ねた。 

お姉さん夫婦にお子さんは?

息子が一人いると言う。案の定、小さいころから徹さんが付きっきりで勉強を教えているとのこと。ときどき椅子が飛ぶくらいに激しく。美千代さんを志望校合格へ導いたやり方は徹さんにとっては成功体験であり、それがベストの方法として疑っていないのだ。自分の息子となればさらに熱が入るというものだろう。

ある意味、徹さんは正しかった。息子は中学受験で超人気校に合格。さらに超難関大学の医学部に進学し、現在は医師として働く。誰もが羨む「成功」物語だ。「頭がいい子を育てる父親の教育法」というような本を書けるほどに、徹さんには 確固たる教育論があることだろう。

しかしそれが少なくとも万能でないことは、美千代さんが証明済みだ。もちろん美千代さん自身、自分の娘を同じように育てたいとはまったく感じていない。自分の人生を生きることや幸せに生きることは、受験勉強での成功とはまったく次元の違うところにあると考えているからだ。

ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』(ディスカヴァー携書)
「本書の目的も〝悪い親〞を糾弾することではない。重要なのは、何が彼らをそこまで駆り立ててしまうのかに視野を広げることである」――2015年に毎日新聞社から刊行した『追いつめる親』から大幅に加筆修正。教育虐待はなぜ起こりうるのか。そして親は、子はどうしたらいいのか。具体例とデータとともに、長く教育の現場を見続けてきたおおたさんならではの分析がなされた一冊。