女性が「怒る」ことになぜ社会は不寛容なのか、その歴史的経緯

「感情史」の視点で考える
小野寺 拓也 プロフィール

現在でも女性の職業は男性の職業とくらべてより深く感情労働と関わっており、つねに「笑顔でサービス」することが求められている。

手元にある、とある女性雑誌では、仕事において女性に求められる能力の一つとして「HAPPY力」なるものが挙げられている。「そこにいるだけで、周りを明るくする、女の子としての存在感」のことだそうだ。このような能力が男性に求められることが皆無だとは言わないが、しかし求められるのは今なお圧倒的に女性であるということは明らかだろう。

 

規範にとらわれていることには気づきづらい

こうした「感情表現のルール」が厄介なのは、その多くが無意識のうちに共有されているという点にあるだろう。「何を発言するか」という発言内容については意識的な議論が可能な一方で、「どのように話すのか」ということについては、こうした感情規範が暗黙の前提、全員が当然のこととして共有しておくべき価値観とされるため、自分がどのような価値規範にとらわれているのかということが意識されないまま発話されることが非常に多い。

こうした場合、コミュケーションそのものが成立しないことになる。批判する側が「共有していて当然」とする規範に、批判される側は同意した覚えもないのだから。フェミニストの女性は「怒りっぽく、感情的だ」という言説は、相手の共有しない価値観で相手を批判するという、不毛なコミュニケーションの端的な例である。もし、相手が共有しないことを前提にそうした議論をしているのだとすれば、それはもはやコミュニケーションではなく、排除のための言説である。

そして感情史研究が明らかにしようとしているのも、まさにそうした「暗黙知」である。ある社会や集団のなかで共有されている、普段は言語化されることのない規範を解明し、そうした規範がどのように社会に受容されていったのか、それを受容しない人びとがどのように排除されていたのか、そのプロセスを明らかにすることを目指している。

「暗黙知」にとらわれている自分をそれによって客観視できるようになれば、それを共有しない人間をやみくもに攻撃するのをひとまず思いとどまり、自分自身をとりあえずは「括弧に入れて」相手の意見を受け止めることができるようになるのではないか。それが、感情史研究を囓っている研究者の一人としての、はかない希望である。