あの震災に直面してわかった「証券マンの役割とは何か」

東京マネー戦記【16】2011年3月
森 将人 プロフィール

坂下は銀行出身らしく、経理には強いがマーケットに詳しいわけではなかった。震災によって意図せず自分たちがマーケットの注目を浴びてしまったことに、困惑しているように見えた。

買い手はいるといったものの、ぼくも本当に百億円単位で資金を調達できるか不安があった。国債の発行ですら、一部は停止されたままだ。多くの投資家は、マーケットから距離を置いていた。

ぼくがO社のディールにこだわったのは、市場が死んでいないことを示したいからだった。

金融不安のときも米国同時テロのときも、マーケットは機能し続けていた。証券会社が活動を止めなかったのは、マーケットに流動性を提供することこそ自分たちの存在意義だからだった。

今度こそ逃げ出したくなかった。守らなければいけないものは明らかだった。

 

いま逃げ出したら…

震災の少し前から、妻との間で一番の関心事は、子どもをいつ作るかだった。

結婚してから、すでに6年が経っていた。30代後半になり、ぼくはそろそろ生活を変える必要性を感じていた。妻も数年前に音楽の制作会社から転職し、時間に余裕のある生活に切り替えていた。

原発事故に妻が神経質になっていたのは、そんな背景があった。

食べものに気を遣うのはもちろん、雨に濡れるのも嫌だという。将来産まれてくるであろう子どもに影響しかねない、という噂を気にしていた。

「ちょっとは私のことも考えてよ」

「わかってるけど、どうしろっていうんだよ」

「何も、ずっと仕事を休んでっていってるわけじゃないのよ。今なら少しくらい休めるんじゃないかって思っただけよ」

「簡単にいうなよ。会社にとっても、今が大事だ。俺が逃げ出したら、みんなの恨みを買いかねないよ」

「そんなのおかしいわよ。同じことしてる人もいるでしょ。あなたのチームの外国人も、香港に移るらしいじゃない」

「何でそんなこと……」

ぼくには妻がなぜ、会社の人事まで知っているのかが不思議だった。同僚の英国人ディーラーのことだ。原発事故の影響を懸念して、しばらく香港のオフィスで業務をするという。

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「奥さんたちの間で噂になってるわよ。そういうことが、何であなたにはできないの? 家族が心配じゃないの?」

妻のいうことは正しかった。しかしぼくには、この異常事態のさなかで、自分の生活と仕事にどういう優先順位をつければよいかわからなかった。