2019.07.13
# 民族未来主義 # 近代 # ユーゴスラビア

エスノフューチャリズムの「反動的」で「解放的」な未来?

ターボフォークに見る新しい第三の道
河南 瑠莉 プロフィール

しかし果たして本当にそうなのだろうか? 政治経済体制としての「第三の道」は、ユーゴの崩壊とともに滅失したのかもしれない。けれどこうした「リアリズム」の了解によって、私たちはポスト共産主義的なニヒリズムの世界に安住してしまうのではないのか。

民族的なエレメントを手掛かりに、西洋近代とは異なる「未来」を見出そうと試みるのが、音楽家「マングリチャ(Mangulica)」に代表される新たな世代が実践するターボフォークだ。

彼らはバルカン音楽のビートをある時はサンプリングし、またある時は民族楽器を用いて実演しながら、ポストロック、あるいはサイケデリックロックといった実験音楽を作り出す。こうしたターボフォークの新たな実践は、民族的なものに対する「アイロニー」ではなく、むしろその「不在」によって特徴付けられると言っていいだろう。

私たちがターボフォークをはじめ「民族的なもの」をアイロニカルに鑑賞しようとするとき、私たちはそれを西洋美学的な「キッチュ」の範疇で理解してしまうことになる。対象をある種の「フィクション」として受け取るがゆえに、私たちは「シラけつつノる」ことができるのだ。

つまりキッチュとは、鑑賞に必要な距離を取ることによって、対象の「洗練からの逸脱の度合い」を楽しむものだった。だからこそ、それは必然的に西ヨーロッパ的な洗練された文化的「文法」の習得を前提としている。

ターボフォークにおける「民族的なもの」を安易にキッチュとして評する態度を、マングリチャは一種の「インテレクチュアル・ファシズム」であると批判する。これは非常に重要な点だ。

つまりここで模索されているのは、エスニカルな記号を冷笑的に消費することで、過去の記憶へ沈潜し未来の可能性を凍結してしまうような郷愁的な美学ではない。この点において、ターボフォークに代表される新たな文化運動が、ノスタルジアを原動力とするヴェイパーウェイブとは異なることが明らかだろう。

ヴェイパーウェイブに代表されるノスタルジアは、過去の記号を掘り起こす極めて「考古学的」な美学ではあるが、それはユートピア的な想像力ではない。ユートピアとは徹底的に未来志向なのだ。過去の意匠をさまざまに再利用し、慣れ親しんだ記号の海の中を永遠に浮遊するノスタルジアは、裏をかえせば現実世界に対するアイロニカルな諦念主義とそう変わらない。

もしターボフォークに、民族主義という過去の亡霊の中へと退行することのない新たな美学、バルカンの新たな「第三の道」を生み出す力があるのだとしたら、「これが現代芸術よ!」と叫んだミルコヴィッチの言葉の意味を、ポスト・ポスト共産主義という別の角度から読み直すことができるかもしれない。

 

「民族未来主義」と「グローバル・ヒストリー」

ターボフォークという音楽を例に、単に右派や左派といったカテゴリーに還元することのできない「民族未来主義」と呼ばれる現象が、実はより射程の広い「未来」にまつわる政治的な闘争領域に共振するものであることを紹介した。

ターボフォークには、個別なものの固有性を担保したままグローバルなもの(=「近代」の時間性)に接合するための手がかり――というよりもむしろ、極めて高文脈な文化に依拠した個別性を体現することによって、最もグローバルな思潮への接続を可能にするという特殊な性質を確認することができる。

けれど果たして民族未来主義的な想像力が、危険な「毒」となるのか解放の「薬」となるのかは未知数だ。それは、民族やナショナリズムという本質主義的な作話に陥ることなしに、いかに歴史を語りなおすことができるのかという問題へと私たちを誘う。

民族未来主義とは言葉を換えれば、近代という単一的に想像される歴史的時間の中に遍在する、複数のモダニティとその固有性を考えるための概念装置でもあるのだ。

関連記事