2019.07.13
# 民族未来主義 # 近代 # 新反動主義

エスノフューチャリズムの「反動的」で「解放的」な未来?

ターボフォークに見る新しい第三の道
河南 瑠莉 プロフィール

こうした近代化のトラウマは、バルカンにねじれたアイデンティティ構造をもたらした。歴史家のマリア・トドロヴァによれば、バルカンとは単にヨーロッパ大陸の東南を表わす「地政学」的なカテゴリーではない。むしろそれは、西洋近代による同時代性からの「排除の形象」として内外的に理解されてきたという。

事実バルカンはどこから始まるのか、という問いに明確な答えを出せる者はいないだろう。スラヴォイ・ジジェクはかつてこの問いにこう答えている。「スロヴェニアから見ればバルカンはより東のクロアチアから始まり、クロアチアから見れば本当のバルカンはさらに東のセルビアから始まる。セルビアから見ればバルカンとはアルバニア、ボスニアから始まるのだ」。

つまりバルカンとは、自らの中の「西」=近代と「東」=未開とが折衝される心理的境界線のことであり、バルカンのアイデンティティを希求するとは、西と東の間の「時間的な」ヒエラルキーを内面化することに他ならない。

バルカンとはこうした意味で、常にすでに近代とその「時間性」をめぐる闘争領域として浮かび上がる。そしてそれは同時に「未来」の想像可能性をめぐる戦いとして、極めてローカルな次元においてさまざまな火花をまき散らすことにもなる。

ポスト・ポスト共産主義の地平へ  

ボリス・グロイスが、ポスト共産主義的社会を「未来からの帰還(Back from the Future )」と呼んだように、共産主義の終わりは総じてユートピアの終わりとして受け取られてきた。共産主義的な社会実験の失敗が現実のものとなったとき、社会の異なるあり方を模索するユートピア的な想像力もまた枯渇したという了解だ。

未来とは、新自由主義経済や民主主義社会といった西ヨーロッパ・北大西洋圏の価値体系への迅速かつ必然的な「移行」として単一的に想像されるばかりであって、それを拒む「反動主義者」たちはユーゴノスタルジアへの郷愁とナショナリズムの狭間を生きるしかないのだ、と。

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