講談社五十年史から消された、戦争と「顧問団」

大衆は神である(59)
魚住 昭 プロフィール

五十年史には

このとき、講談社はどう対処したのか。五十年史には概略次のように記されている。

――講談社で陸海軍などとの連絡を一手に引き受けていた竹中保一は昭和十六年二月、陸軍を代表して出版の統制にあたる鈴木庫三(すずき・くらぞう)少佐1に呼び出され、こう言い渡された。

「現在の講談社は編集陣が貧弱でこの時局を乗り切ることができない。講談社を長く続かし、ますます発展させ、国家のため寄与するには、この際、社外から適当な顧問を招き、編集の顧問制を設け、その協力指導によって雑誌を作ったほうがいい」

竹中は本社に戻り、幹部たちに鈴木少佐の提案を説明した。当然、幹部らは「軍部の社内干渉であるとして、一同ちゅうちょしたわけです。また、そうした顧問がなくとも現在の社内スタッフで充分この時局に添った雑誌を作り得るという自信と自負がありました」(竹中証言)。

そこで、竹中は上司の編集局総務部長・加藤謙一とともに鈴木少佐を訪ね、

「顧問制を設けなくとも、講談社は今までの伝統と技術で、りっぱに編集が続けていける」

と言った。すると、鈴木少佐は憤然色をなして立ち上がり、そばに立てかけてあった軍刀をとるなり、ドッスンと床を鳴らし、

「りっぱにやれる? やれるならやってみろ、後で後悔しても知らぬぞ。講談社の運命にかかわる重大なときだということがわからぬか。用紙の配給が止まるぞ。この雑誌統合時代に、講談社が安閑としておったのでは、会社の命取りになるということを知らないのか」

と、さんざん暴言を吐いた。

「あとで、加藤氏は、あのとき鈴木氏と刺しちがえてやろうかと思ったといっていました。

こうなっては、本社としてはもう考える余地がなく、ここに鈴木氏の提唱する顧問制を一応受け入れることとなりましたが、条件としては、顧問の出社することだけは極力拒否することにして、とにかく顧問制を設けるということにしました」(竹中証言)。

顧問団と講談社との初顔合わせは三月六日に行われた。次の会合は三月十八日、赤坂の大東研究所で開かれ、その後毎週一回集まり、綜合雑誌としての『現代』をはじめ各誌それぞれの編集員と顧問の都合のつく者が顔をそろえて、当月号の雑誌批評から戦況、社会情勢、あるいは感心しない記事、載せたい記事、執筆を依頼したい人、避けたい人の指示などがあった。

「その後、会合がずっと続き、最後は昭和二十年五月になっておりますから、約五ヵ年間続いたわけです。

会合場所は赤坂の大東研究所のときもあれば、銀座の日本世紀社事務所のときもあって、その時々で変わり、また集まる顔ぶれも十四名が全部集まるのではなくて、たいてい五、六人で、本社からは当該誌編集部員のほかに、加藤編集総務部長を始め編集局総務部の私たち二、三人が常に世話役として欠かさず出席していました」(竹中証言)

以上のように五十年史には「戦時中の顧問団」問題の概要が――すべて正確かどうかはともかく――記されている。にもかかわらず、木村はなぜ「削られて残念」と言ったのだろうか……。

註① 佐藤卓己『言論統制』(中公新書、2004年)巻末の「鈴木庫三年譜」によれば、鈴木少佐はこの翌月に中佐に昇進、昭和17年に内閣情報局情報官の任から離れ、昭和20年の6月に大佐となっている。終戦は鹿児島の第146師団輜重隊長として迎えている。