佐藤さんはゆっくり話し始めた。
「ある夏、訪れるといつも遊んでいた浜辺がコンクリートの防波堤になっていたんです。子供ながらに寂しくて、その喪失感は大人になっても胸の底にあったように思います」
佐藤少年の感じた悲しみは、やがて大人になって出合う3冊の小説とリンクする。井上靖の『しろばんば』、佐藤雅彦の『砂浜』、よしもとばななの『海のふた』。いずれも伊豆を舞台とした物語だった。
「この3冊は僕にとっての伊豆三部作。いずれの物語にも、大好きだった風景がなくなってしまう描写があるんです。それを読んだ時、失った大切なものを文章にして残せることに強烈な憧れを感じました」
もしかすると佐藤さんの原風景を訪ねる旅は、文章を書くのではない方法で、かつての喪失感と向き合う意味があるのかもしれない。それだけでなく、過去を知ることで未来へと続く何かを探す意味も。
「今回の旅は思いがけず、自分の生い立ちを振り返るきっかけになりました。もちろん、何より楽しかったのは、阪神間モダニズムの空気を直に味わえたことですが」
佐藤さんが体感した、真に豊かな街の空気は、約100年前にこの地に芽生え、現代まで培われてきたものだ。それも「保存」や「継承」といった大袈裟な話ではなく、ごく自然な生活の一部として。
「もっと早く訪れていればよかったと何度思ったことか。見たい建築はまだまだあるし、これからも繰り返し旅をして、このハイカラな文化を味わい尽くしたいと思います」
PROFILE
佐藤達郎 Tatsuro Sato
瀬戸内生まれ。ステーショナリーメーカー〈DELFONICS〉の代表兼デザインディレクター。商品からショップ内装まで、トータルでデザインディレクションを行っている。
●情報は、2019年6月現在のものです。
※本記事内の価格は、すべて税込み価格です。
Photo:Norio Kidera Text:Yuka Uchida Edit:Chizuru Atsuta