「母親という名の宗教」との決別

このとき、そばにいてくれた夫が優しく言ってくれた。

「プロの力を借りてみたら?」 

知佳さんは心理カウンセリングを受けることにした。あのときの痛さ、辛さ、悲しさ、怖さが、ありありと蘇る。涙が溢れる。止まらなくなる。 30 年間無理矢理押し込めてきたものをすべて吐き出す、感情の嘔吐。過去と向き合うことは辛かった。

カウンセラーが言う。

お母さんのこと、手放してもいいよ」 

今まで辛い自分の内なるものに蓋をしていたことが、夫への暴言などの形で出てしまっていた Photo by iStock

手放したい。しかし知佳さんの心が葛藤する。「そんな親不孝なこと、私にはできない」 実家を出て以来、母親とは距離をおいていた。しかし知佳さんはまだ、母親と感情的に癒着していた。カウンセリングを始めて半年くらいが経ったころようやく、母が自分のことで感情を悪くしても、それは母自身の問題であって、自分の問題ではないことがわかった。 

「私は『母親という名の宗教』にとらわれていました。母の信条に反することをすれば天罰を受けると思い込んでいたのです」 

知佳さんはようやく「母親という名の宗教」を抜け出した。母親に恐怖を感じなくなった。 カウンセラーの勧めで母親に手紙を書くことにした。心理学的にとらえれば、過去のトラウマを清算し自分の人生を歩み出すために必要な「対決」のプロセスである。

自分をようやく認めて受け入れられた

過去の感情、感謝の気持ち、これから自分がどう生きていきたいかを、手紙にしたためる。返事は期待していなかった。しかししばらくして母親から返事が届いた。「すまなかった。未熟な母親で申し訳なかった」と書かれていた。

いま思えば、知佳さんはいつも他人からの評価を気にして生きてきた。自分に自信をもったことがなく、いつも「私なんて……」と自らを卑下して生きていた。カウンセリングを通してそんな自分を認め、受け入れ、乗り越えた。そしてようやく、長年抱え込んでいたものを手放すことができた。その感覚を知佳さんは、「世界がシンプルになって、楽になった」と表現する。 

ただし知佳さんにはまだ心配がある。弟のことだ。知佳さんとは4歳違い。弟は知佳さんよりもさらに出来が良く、「一家の期待の星」だったという。現在は実家に暮らしながら、公務員として働いている。弟にガールフレンドができると、いまでも母親は、なんとかデートを阻止しようと画策する。 

知佳さんは母親を手放した。知佳さんが手放したその負担が、弟に行ってしまうのではないか。それが心配だ。しかしまだ知佳さんは、そのことを弟本人に伝えていない。

ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』(ディスカヴァー携書)「本書の目的も〝悪い親〞を糾弾することではない。重要なのは、何が彼らをそこまで駆り立ててしまうのかに視野を広げることである」――2015年に毎日新聞社から刊行した『追いつめる親』から大幅に加筆修正。教育虐待はなぜ起こりうるのか。そして親は、子はどうしたらいいのか。具体的事例とともに、長く教育の現場を見続けてきたおおたさんならではの分析がなされた一冊。