母親へ包丁を持ち出した弟

さて、その後の母親である。やや時間を巻き戻す。晴男さんが中学生のころ、母親は次男の中学受験対策に必死になっていた。次男は晴男さんよりもさらに成績が良く、晴男さんとは別の有名中高一貫校に進学した。その数カ月後に晴男さんが高校を退学したため、弟は母親の期待を一身に受けるハメになり、彼なりに息苦しさを感じていた。しかし、晴男さんほど親に反発する力がなかった。

弟は大学受験で、東大に落ちた。本人は私大に進学するつもりだったが、両親は浪人してもういちど東大を受けなさいと迫る。口論の末、弟は包丁を持ち出した。そのとき晴男さんはたまたま実家にいた。弟の気持ちをなだめ、包丁を収めさせ、兄として、弟の悲しみといらだちを受け止めた。弟の気持ちが痛いほどにわかった。

晴男さんが 25 歳のとき、晴男さんは久しぶりに母親とじっくり話す機会を得た。母親は意外なことを口にした。「私は至らない母親だったけれど、あなたがいま、ちゃんと仕事して、ひとりで立派に生きているのを見て、私、何も心配することがないわ」

また、父親についても語った。「お父さんがいつか言ってたわ。子育てが自分にとって生まれて初めての挫折だったって」

母親の気持ちもある種の「善」だった

いまさらそんなことを言われたって、どうしようもない。しかしいつまでも恨みをもっていても自分が生きづらくなるだけだ。母親を許し、リセットしよう。自分自身が前を向くために、そう決めた。 

母親の気持ちだって、本質的には善なのだと思います。でも自分の善を理解してくれな いことを悪だと思ってしまうのは間違いです。『こんなに考えているのに』『あなたのためなのに』というのは独善です。一方で、僕も、母親から逃げるばかりでなくて、もっと母親と対決しなければいけなかったのかもしれません。そうすれば違う道があったのかもしれないと思うことはあります」 

晴男さんには現在、2人の子どもがいる。盆暮れ正月には孫を連れて実家に帰り、楽しい時間を過ごすことができる。母親は孫に甘く、父親はすっかり穏やかになった。 

「もとはといえば、母はやさしいひとでした。むしろ父のほうが学歴主義で仕事人間で。父のことを尊敬していた母は『自分が息子を夫の期待通りの男性に育てなければ』と責任感をもちすぎてしまったのかもしれません。いちどはめちゃくちゃな人生になりましたけれど、なんとか元に戻ることができたのは、 両親の仲が良かったからだと思います」

自分の経験を踏まえて、子育てで気をつけていることがある。

「自分がされたことを絶対にしたくないと思うあまり、判断が逆に偏るようなことがあっ てはいけないと自分に言い聞かせました。『こうしなさい』とは言わないようにしていますが、間違ったことをしているときにはドスをきかせて一喝することもあります(笑)。 でも、自分に似た、自分の分身みたいな子が無邪気に遊んでいるのを見ているのは楽しいですね」

ルポ 教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち』(ディスカヴァー携書)「本書の目的も〝悪い親〞を糾弾することではない。重要なのは、何が彼らをそこまで駆り立ててしまうのかに視野を広げることである」――2015年に毎日新聞社から刊行した『追いつめる親』から大幅に加筆修正。教育虐待はなぜ起こりうるのか。そして親は、子はどうしたらいいのか。具体的事例とともに、長く教育の現場を見続けてきたおおたさんならではの分析がなされた一冊。