あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

在日として生き、日韓の間に立った男
竹中 明洋 プロフィール

割れる評価

あまり知られていないが、在日社会の地位向上を支援していたのも、柳川である。柳川が生きていた時代、就職差別や国民金融公庫、住宅金融公庫の融資、国民年金、日本育英会の奨学金なども日本国籍がないために利用できないなどの問題が当時はあった。こうした差別を撤廃しようとする弁護士らの運動を陰になり、日向になり、支援していたという。

ただし、在日社会において柳川の評価は決して肯定的なものばかりではない。

「『殺しの柳川』いうイメージが広がって誰がいちばん迷惑したか言うたら、そら、在日ですわ。在日はああいう恐ろしいことをする連中いう偏見を持たれたらたまりません」

 

ある民団幹部からはそう言われ、民団大阪の団長経験者には柳川を取材したいと伝えて激怒されたこともあった。かつて大阪の在日社会で読まれた新聞の元経営者からは、こんな指摘も受けた。

「いくら差別されていたからといって、まっとうに努力を重ねて地位を築いた在日はたくさんいます。在日社会の9割以上は、柳川さんについてノーという評価をするはずです。残りの1割は、トラブルシューターとしての柳川さんに期待する人たちです。あるいは柳川さんの虎の威を借りたい人たち。そういう人たちは、柳川さんのことを渋々肯定し、関わりを持った。在日社会に愛された任侠の親分いう柳川像は虚像です。周囲がその虚像を奉り、柳川さんもその神輿に乗ったに過ぎません」

柳川組摘発の動きが激しくなった1967年の大手紙の記事

暴力によって自己実現をしようとした柳川の生き方を肯定することはできない。ただ、柳川のような人物が登場し、そして彼を必要とする人々がいたのも、まさに戦後の日本と朝鮮半島が歩んだ特異な歴史ゆえである。

差別に苦しむ在日社会を憂い、いがみ合う日本と韓国の関係を改善しようとした。 しかし、柳川は91年に、志半ばで病に倒れた。享年68。