あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

在日として生き、日韓の間に立った男
竹中 明洋 プロフィール

「私ら在日は日本において差別されただけでなく、本国からも見捨てられ、挙げ句の果てに利用された苦難の歴史を歩んできたんです。泥田を這うような暮らしをしていた私らを守護神のように守ってくれたのが、柳川さんが持つ暴力でした。あの時代を乗り切るには柳川さんの暴力が必要やったんです。在日の知識人のペンの力だけではどうにも弱かった」

そう語るのは、柳川の元側近で、のちに民団大阪の幹部にもなった人物である。

 

「中曽根訪韓」との関わり

「殺しの柳川」と恐れられた男がヤクザを辞めてからの後半生は、これまでほとんど語られてこなかった。その暴力的なイメージゆえに日本人社会だけでなく在日社会からも白眼視されたからである。

だが、その後半生は前半生以上に波乱に富んでいる。韓国の軍事政権に近づいた柳川は、74年に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領の招きで44年ぶりに祖国の土を踏んだ。その時のことを自らこう綴っている。

「立派に繁栄している祖国の姿に強い感動と感銘を受けた。この祖国の将来を一段と安定したものにするには産業・海運・国防の三分野の強化が必要であろうというのが、私の得た一つの結論であった。そうしてどの根幹をとって見ても、日韓両国は運命共同体たらざるを得ないのであるまいかというのが私の偽らざる感想でもあった」

そしてこう決意するのである。

「自分の過去を顧みる時、私自身も在日韓国人であるがゆえに差別・偏見にいくたびとなく苦汁をなめ、そのせいだけではないのだが、いわゆる無茶もして来た。だが今は違う。在日韓国人の一人として、私は日本国に対しても私がすべきことがあれば進んでやろうという気構えである」

柳川は、軍事政権の屋台骨であった情報機関を日本で支えた。朝鮮半島で南北が対峙していた70年代や80年代、日本の在日社会では南北の情報機関が激しい工作活動を繰り広げていた。74年には朝鮮総連の影響下にあった在日韓国人の若者がソウルで大統領夫人を暗殺する事件を起こしている。柳川はこうした南北の謀略戦の最前線で、韓国の情報工作の一翼を担っていたのである。

また、空手やテコンドー、ボクシングなどにも深く関わり、日韓の政治家にも幅広い人脈を築いた。83年、中曽根康弘は、戦後初の日本の首相による公式訪韓を果たしたが、その下準備に奔走した一人に、柳川の存在を指摘する人間もいる。

盧泰愚(ノ・テウ)政権下で行われた88年のソウル五輪は、朴正煕政権以来の経済発展路線がたぐり寄せたハレの場である。開会式に招待された柳川に用意されたのは大統領の三列後ろの貴賓席だったという。