あの許永中が憧れた武闘派ヤクザ「殺しの柳川」を知っているか

在日として生き、日韓の間に立った男
竹中 明洋 プロフィール

堅気となってからは、海峡を挟んだ二つの国の橋渡し役たらんとして日韓を行き来することに生涯を費やした。本国との太いパイプを築いた柳川は、韓国の情報機関と深く関わり、80年代の全斗煥(チョン・ドファン)政権時代には政権中枢にまでその影響力が及んだ。

柳川が亡くなってからすでに30年近い。生前の柳川を知る関係者も少なくなっているなか、ようやく辿りついたのが許永中氏だった。

許永中氏は47年生まれだから、柳川とは二回りも年齢が違う。初めて柳川を見たのは、まだ小学6年か中学1年の頃だったという。場所は大阪の西天満にあった大阪報知新聞である。

大阪報知新聞は、柳川組の副組長だったこともある加藤武義が社長をしていた新聞社だ。その日は大阪報知新聞が主催する形で、プロレス興行のために大阪を訪れていた力道山を囲んで食事会が開かれ、朝鮮半島出身の力道山をもてなすため大阪の在日が集まった。

「民団(在日本大韓民国民団)の北大阪支部長だった父がこの会に呼ばれていたので、私も紛れ込んだのですが、会場の隅で待っていると、黒シャツの大柄な体格の人が現れたんです。ものすごい恐ろしい目つきで、それだけでグッときそうなほどの迫力ですわ。オーラも半端ない。初めて間近に見た伝説上の人物言うんかな。それが柳川さんやったんです」

 

戦後を生きた「義賊」

許永中氏が生まれ育った中津は、大阪のターミナルである梅田からわずか一駅のところにある。周辺には高層マンションが林立するが、今もエアポケットのように、かつての面影を色濃く残す一角がある。間口が三メートルもない木造の長屋と、人がすれ違うのがやっとという狭い路地、そして昼間でもシャッターが下りたままの店ばかりで暗く静まりかえった商店街。かつてここでは在日が肩を寄せ合うように暮らしていた。 差別に苦しみながら懸命に生きていた彼らは柳川組を特別な思いで見ていたという。

「中津の商店街に、8つ年上の私の姉の同級生だったお兄さんがおったんですが、喧嘩が滅法強くてね。中津の若手のエースでした。背が高くてスラッとして私の憧れやったんです。この人が20歳過ぎの頃かな、柳川組に入れてもらったと聞いて、『すごい』と興奮したもんです。 当時の在日の若者の間では、柳川組はそういう存在。やんちゃしとった者なら誰もがあそこの 若い衆になるのを夢見てました」

許永中氏が柳川を初めて見かけ、在日の少年たちが若い衆になることを夢見た60年頃といえば、柳川組が正式にヤクザとして旗揚げしたばかりである。同胞である柳川らが率いる柳川組が暴力によって大阪の裏社会でのし上がっていく姿に、差別や貧困に喘ぐ在日社会は、あたかも権力に抗して活躍する義賊を見るかのように喝采を送っていた。