あなたが法的紛争に巻き込まれたときに困らないために

『民事裁判入門』を特別公開
瀬木 比呂志 プロフィール

② 裁判官や弁護士の行っていることについての理解が得られる。

これは、特に、あなたがみずから民事訴訟にかかわる際に問題になる事柄である。こうした事柄が理解できていないと、自分で訴訟を進める場合(「本人訴訟」といわれる)はもちろん、弁護士に委任する場合(弁護士を選任する、弁護士を頼む場合)でも、弁護士がその時々で何をやっているかがよくわからないから、その説明を聴いても十分に理解できないし、和解や人証(じんしょう)調べ(当事者本人の供述や証人の証言を聴く証拠調べ)で裁判所に出向くことがあっても、自分がどういう資格でそこに出席しており何をすべきなのか、また自分の発言がどういう意味をもつのかが十分に理解できない、ということになる。

実際、こうした事柄について理解しないまま限られた側面で訴訟にかかわったために、裁判官や弁護士に対して不信を抱き、ひいては訴訟のあり方やその結果についても不満を抱くに至る人々は、非常に多いのである。

また、こうした知識は、あなたが、弁護士と相談をし、委任するかどうかを決め、さらに訴訟の途中でその話を聴いて訴訟の進行方向や和解案の当否について決断する際にも、大いに役立つはずである。ここでもまた、多くの人々が、知識不足のままこうした事柄を行い、後になって不満を抱く、後悔するという事態が起こっているからだ。

本書から得られる知識は、以上のような場合に、あなたの助け、基本的な指針となるはずだ。

日本の民事訴訟や関連の各種手続の件数は、欧米先進諸国の多くに比べれば人口比では少ない。とはいえ、簡裁の各種手続まで含めれば相当の数があり、また、実際に訴訟になるか否かはおくとしても、ごく普通の市民が法的紛争に巻き込まれる、関係する機会そのものは、社会の高度化に伴い、増えてきている。

一例を挙げれば、何気なく行ったインターネットの書き込み一つで民事訴訟を提起されたり、刑事関連手続に巻き込まれたりといったことが起こりうるのが、今の社会だ。また、中小の企業でも海外取引を行えば渉外紛争に巻き込まれることは十分ありうるし、国際結婚・離婚、ことに後者にも、難しい法律問題がつきまとうことは多い。

こうした時代に、民事紛争・私的な紛争解決のための最終手段である民事訴訟について知っておく、理解を深めておくことには、大きな意味があるはずだ。

③ 法的・制度的リテラシーの向上を図ることができる。

この点についてはすでに多少ふれたが、ここではさらに敷衍(ふえん)して説明しておきたい。

僕は、長年法学(民事訴訟法学、法社会学)を実践・研究し、判事補時代と大学に移ってからの二度、アメリカで各一年間の在外研究を行い、また、二五年以上にわたって、体系書・教科書を含む専門書や広い分野の一般書を書いてきた。その過程で、日本社会のさまざまな分野の人々と会う機会も多かったし、外国人とも相当に接触してきている。

その結果としての日本社会に対する僕の見方は、おおむね以下のようなものだ。僕の執筆活動全体の問題意識とも関係するので、正確に記してみたい(詳細については、『裁判官・学者の哲学と意見』〔現代書館。以下、『哲学と意見』と略〕に一定のことを書いたほか、今後執筆予定の書物でも明らかにしてゆきたい。なお、僕の書物のうち本書と何らかの意味で関連する内容のものについては、巻末の「拙著等ブックガイド」に掲げているので、参考にしていただきたい)。

「日本社会は、いわば、『高度に組織され、よく洗練された、巨大なムラ社会』である。その法・制度・社会は、ちょっとみたところでは欧米先進諸国のそれとほとんど変わらないようにみえる。しかし、法社会学的な実態をよくみると、そこには、きわめて特殊日本的な変形や古い制度との実質的折衷がみられることが多い。

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『高度に組織され、よく洗練された、巨大なムラ社会』には、安全、平和、規律、調和等のメリットがあり、安心して暮らせるという側面もある。しかし、反面、(ⅰ)集団中心主義、(ⅱ)抑圧的文化、(ⅲ)大きな物事に対する対処のまずさ(戦争、バブル経済、赤字国債、原発等々)、(ⅳ)人々の自発性がなかなか育たず個人の生き方や社会のあり方の新しい方向が定められない、(ⅴ)先のように集団中心の生き方や働き方をするために民主主義社会の基盤であるはずの個人の内的生活や自分と家族のための自由な時間が十分に確保できない、個人の内面的価値意識も尊重されにくい、(ⅵ)表に出ないハラスメントが多い、(ⅶ)経済的なものをはじめとするハンディキャップを負った人々をケアする制度が未発達、未熟である、などの大きな問題、また、息苦しく過酷な側面もある。

これらは、いわば、同一のコインの表と裏なのだ。

もっとも、海外の制度を採り入れる際に先のような変形や折衷が行われることそれ自体は、日本だけの現象ではない。ただ、日本の場合に問題なのは、このことと『タテマエと本音の精妙な二重基準(ダブルスタンダード)』という日本文化に顕著な特質とがからみ合う結果、『外見は欧米・世界標準(場合によりむしろ先進的)だが、その内実は大きく異なる』という制度ができてしまいやすいことだ。その典型の一つが裁判所であり、行政や立法、メディアやジャーナリズム、あるいは大学等についても、そうした傾向はある」

僕が、『絶望の裁判所』、『ニッポンの裁判』という二冊の新書、これらと対になる創作である『黒い巨塔 最高裁判所』〔各、講談社〕(以下、『絶望』、『ニッポン』、『黒い巨塔』と略)、また、以上の入門とも展開・補足ともなっている清水潔氏との対談『裁判所の正体――法服を着た役人たち』〔新潮社〕で行った一連の日本司法の分析批判も、ある意味では、右のような日本社会の問題点の一端を司法を例にとりつつ明らかにしたものといえる。