「素晴らしい」は悪い意味だった

どこで読んだのか忘れてしまったが、僕たちが事物を絶賛するときに使う「素晴らしい」という言葉は、つい100年足らず前までは、悪い意味で使われていたらしい
関東大震災の翌日の新聞紙面の見出しには、「帝都、素晴らしい被害」と書かれていたという説もある。もし僕が大正時代に生きていたならば、家を出た途端屎尿を浴びせかけられるという悲惨な事態について、友達に「大変素晴らしいことが起こった!」とでも言ったのかもしれない。

同じ言葉でも、場所が変わると意味が変わる、という場合もある。日本語の語彙のかなりの割合が、中国語由来の「漢語」だと言われているが、大多数の「漢語」は、オリジナルの中国語と同じ意味を持つ。

いっぽうで、違う意味を持ってしまった言葉もある。たとえば、「勉強」という語。日本語の勉強は、中国語では「学習」(シュエシー)であって、中国語で「勉強」(ミエンチャン)は「無理をさせる/無理をする」という意味になる。かつて中国から「勉強」という言葉が日本に移入してきたのは間違いないだろうが、それが日本では「学習する」という意味に変化したのだ。

むかしむかし、唐の国に留学した日本の僧侶が、厳しい科挙の試験のために夜なべして勉強する中国の若者に問いました。

「もし。あなたはいま何をしているのですか」

若者は答えました。

「私はいま“勉強”(無理)をしているのです! 本当に大変です……」

(ほうほう、学ぶことを「勉強」と言うのだな……)

誤解したまま日本人の僧侶は、それを新しい語として日本に持ち帰ったとさ――

というようなストーリーを想像してしまう(史実ではありません、念のため)。

もともとの「勉強」の意味はビジュアルではこんなイメージなのでは Photo by iStock