僕はパニックになった。屎尿らしき液体を浴びてしまった身体が戦慄きはじめる。そして僕は、斜向かいのビルの1Fの管理人のところへ駆け込んだ。

「おじさん! ちょっと! お宅のビルの下水管が破裂してるのか、ビルから屎尿が降り注いでいますよ!」

おじさんは、「え? 本当?」と言いながら、のんびりと外に出て来て空を見上げている。ところが、おじさんが出てきたときにはもう漏水は止まっていて、ビルからは何も降り注いでいなかった。

「あんた、何もないじゃないか。勘違いだよ」

笑いながら引っ込もうとするおじさんに向かって、僕は叫ぶ。

「じゃあこの臭いはなんなのさ! 俺のカバンや服にもついてるでしょ! それからこの水たまり! 臭ってみてくださいよ!」

僕は、おじさんに、自分の服やカバンの臭いを嗅がせながら、屎尿の水たまりにまで案内して、必死におじさんに事態の深刻さを訴えた。

おじさんはようやく真相に気づき、「いやあ、これは大変だ。ちょっと上の階を確認してくる」と言って颯爽と階段を駆け上っていった。

取り残された僕は、なんだか涙が出てきた。なんで、よりによって締切に追われているときに、こんな事態に巻き込まれたんだろう。

これこそがまさに「クソ!」と呼ぶべき事態

しかし、このままではいけない。僕は急いで家に戻り、まず着ていた服をすべて洗濯機に突っ込んだあと、丹念に手を洗った。その上でつい30分前に浴びたばかりのシャワーを再度浴びて全身をくまなく洗ってのち、カバンやクロックスといった身の回りのものに、75%のアルコール消毒液をこれでもかというほどにふりかけて、丹念に拭きまくった。

もはや、空腹すら忘れてしまっていた。

ああ、これこそがまさしく「クソ!」と呼ぶべき事態なのだ、と心底思った――。

さて、物書きとして、日々言葉と向き合っていると、言葉の「源泉」や「変化」に思いをはせることがしばしばある。「クソ」な経験をした僕は、「クソ」という言葉についても、考えてみた。

「クソ! しくじった!」
「マジクソ」
「クソ野郎」

枚挙にいとまがないけれども、こういう場合における「クソ」の用法は、英語の“shit”と概ね被っているように思われる。

いっぽう「クソ」は、昨今では必ずしも悪い意味に用いられるとは限らない。

「クソうまい」
「クソきれい」
「クソかわいい」

これらの用法において「クソ」は、ほとんど「超」とか「すげえ」と同じような意味合いで使われているように思う。

それは英語でもどうやら同じらしく、アメリカやイギリスの映画を観ていると、”shit”が絡むセリフについて、字幕で「やべえ」とか「すげえ」などと訳される場合が多くなっていることに気がついた。なるほど、「クソ」という言葉は、英語と日本語でインタラクティヴに連動しながら、語意や用法が変化してきたのかもしれないなあ、と思う。

「クソゲー」なんていう言葉もある。僕はゲームをほとんどやらないので詳しくないが、この「クソゲー」には根強い愛好者が多いらしく、この用法における「クソ」には、愛憎入り混じったような複雑な意味合いがあると言えるだろう。

そう、言葉は生き物であり、絶えず変化しているのだ。