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「息子を殺した元官僚の父」を密かに賞賛した日本社会への違和感

「自己責任」と「家父長制」の暴走

「殺処分せよ」という匿名の声

5月28日、小学校児童ら20人が殺傷され、世間に衝撃を与えた川崎市の事件からまもなく2ヵ月が経つ。この犯人は、現場で自殺している。そして、そのすぐ後の6月1日には、元農水相事務次官まで務めた76歳の男性が44歳の息子を殺害し、自ら通報して自首するという事件が起きた。報道によると、この男性には「息子が川崎のような事件を起こすのではないか」という懸念があったようである。

川崎の事件については、自死した犯人に同情するような論調は全く見られなかった。むしろ「自殺したいなら勝手に一人で死ね」といった議論がほとんどであった。

一方で、息子を殺害した元高級官僚については、世間は同情的な反応を見せた。いや、同情ばかりか、「他人への危害を未然に防いでくれた」として歓迎する論調さえあった。

同じ殺人事件であるはずなのに、この差は一体どういうことであろうか。

 

このような世間の反応の差を敢えて言葉にするとこうなる。社会にとって迷惑な、重荷となるような人は「一人で死ぬべき人」であり、「犯罪を犯す危険のある人」は、殺されても仕方がない。

実際にネット上では、「引きこもりやニートは更生の可能性がないから、さっさと殺処分せよ」などという過激な書き込みさえ散見された。すなわち、「死んでもよい人」「殺してもよい人」がいるということになる。

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「普通を守る」ために「排除する」倒錯

このように、特定の人に対していわば「死んで当然」といった主張を平気でする人について、まず指摘できるのは、彼らには「自分自身もそのように排除される立場になりうる」という想像力が欠如しているということである。

自分が所属する「普通の人々からなる普通の社会」を守るためには、そこから逸脱する特殊な人間を排除しなければならない。彼らのこのような態度は、実は彼らの求める「普通の社会」という言葉そのものと矛盾している。

というのも、通常私たちが言う「普通の社会」というのは、社会学の用語で言えば、「包摂型社会」であって、そこでは、「他者を憎んだり敵とみなすのではなく、普通の人々と同じ人間になるまで社会化、更生、治療に励むような社会」(ジョック・ヤング『排除型社会』洛北出版、2007)のはずだからである。

しかしヤングの分析によれば、先進産業国では1970年代ころから、個人主義の拡散と労働市場の再編が進み、それまで中心にあった家族と労働の制度が、人々を包摂し安定を保障するものではなくなり始めた。そのため、「包摂型社会」から「排除型社会」への構造変化が生じたという。