公文書とは何か…「薬害エイズ事件」の文書が与えた大きな影響

公文書問題30年史(1)
三木 由希子 プロフィール

薬害エイズ事件の「郡司ファイル」

このような方針変更は、1995年1月から3月の間に起こった。ちょうどこの期間に明らかになったのが、薬害エイズ事件の「郡司ファイル」だ。これが、行政文書の定義の議論に、少なからず影響を与えることになる。

薬害エイズ事件は、1982~1985年にかけてHIVウィルスに汚染された非加熱の血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を使った血友病患者がHIVに感染し、エイズを発症し亡くなった患者も出た薬害事件だ。

日本の血友病患者の約4割が感染したとされ、HIVウィルス感染者への社会的偏見、感染告知が遅れたことで発病予防の治療も受けられず、二次感染、三次感染も起こり、大きな社会問題になった。

 

これが社会問題化として認知されるようになった契機は、裁判だ。

非加熱製剤の危険性を認識しながら製薬会社は販売し、厚生省が認可したことに対する損害賠償請求の裁判が、大阪と東京で提訴された。平成に入ったその年の1989年のことだ。責任の有無の争点の一つになっていたのが、いつ、厚生省が非加熱製剤の危険性を知ったのかだ。

訴訟は長期化し、東京地裁の和解勧告が不調に終わったところで行われたのが、厚生省内での情報探索だ。1996年1月に当時の菅直人厚生大臣が、省内に薬害エイズ調査班を設置して行われた。

そのとき見つかったのが、郡司ファイルだ。1983年に血液製剤の原料である血液を輸入していた米国でのエイズの流行を受けて、エイズ研究班が立ち上げられた当時の厚生省薬務局生物製剤課長だった郡司篤晃氏が作っていたファイルなので、この名がついている。

「郡司ファイル」の一部

東京地裁と大阪地裁の裁判が結審し、和解案が提示されていた1996年2月、菅厚生大臣が省内に薬害エイズ原告団を招き入れる。そこで、原告団に「郡司ファイル」を見せ、厚生省内の倉庫で見つかり、1983年当時、厚生省内に非加熱制裁が危険という認識があったと謝罪した。

当時、郡司ファイルについてわかっていたのが、①郡司課長(当時)が作ったファイルであること、②厚生省の書庫という共有スペースに保存されていたこと、③ファイル内には政府の政策判断に係る経緯や内容が含まれているようであること、の3点だ。

先行して情報公開条例を制定していた自治体の多くが、決裁や供覧という一定の手続を経た文書のみを請求対象にしており、情報公開法も同様の請求対象文書の範囲にすると、郡司ファイルは外れるだろうと指摘されていた。

ファイルは、厚生省課長が職務上作成しているが、決裁や供覧といった内部の一定の手続を経ておらず、書庫に放置され、その存在が内部で必ずしも把握されていたわけではなかった。

そこで、この郡司ファイルが、情報公開法での情報公開請求の対象になるのかが、注目されるようになる。