なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか

「ただしさ」を確認するための生贄
御田寺 圭 プロフィール

「差別を許さない社会」において高まり続ける「差別主義者と認定されることのリスクとペナルティ」そして「人間一人ひとりを個別に理解するための時間的・精神的リソース」に対して、けっして口には出せないものの、人びとは多かれ少なかれ疲れを感じつつある。無理難題を要求されているに等しいからだ。

だからこそ、その緩衝材(バッファ)として例外的に「偏見を好きなだけ貼りつけて処理しても、差別主義者であると糾弾されない便利な存在」が求められた――それが「おっさん」だったのだ。

 

危険な反論

「いやいや、別にまったくの偏見から『おっさん』をバッシングしているわけではないよ。実際に大勢の人が『おっさん』のそういうところに苦しめられているって証拠でしょう。 悪を叩いて何が悪いの?」といった反論もあるようだ。

たしかに、「おっさん批判」がまったく的外れであるならば、これほどまでに多くの共感や賞賛が集まるとは考えにくい。大なり小なり、世間の人びとが「おっさん」に対して感じる不満や嫌悪感を代弁している側面はあるのだろう。

だが「まったくの無根拠な中傷を浴びせているわけではない。多くの人が肌感覚で感じていることが、言語化されているにすぎないのだ」という論理で「おっさん」への差別を正当化する人びとは、その論理が「おっさん」以外の属性に向けられたときにも、はたして同じ態度でいられるのだろうか。

 

たとえばこの論理にしたがえば、結婚や出産を期に休職・退職する可能性があることを根拠にして、女性を総合職で採用せずに非正規雇用としたり昇進させないような企業があっても、それは「偏見ではなく多くの実例から判断したにすぎないのだから、なにが悪いのか?」ということになるし、マンションの家主が「学歴の低い人は統計的に犯罪率が高いので、大卒以外には部屋を貸さない」という行為に出ても、あくまで理屈のうえでは差別ではない、ということになる。

もちろん、だれも上記のような行為や言説を「これは差別ではない(なぜなら、多くの人の経験則に裏付けられた蓋然性や根拠があるのだから)」などとは言わないだろう。むしろ、女性差別や学歴差別という非難が集まるに違いない。

つまりは結局、どのような理屈を並べ立てようが、「おっさんへの差別は差別ではない」という例外的な合意が暗黙裡に敷かれているにすぎないのだ。