なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか

「ただしさ」を確認するための生贄
御田寺 圭 プロフィール

当たりまえのことだが、「おっさん」であるからといって、すなわち社会に害悪をもたらしているというわけではない。

「おっさん」には、毎日働きせっせとお金を稼いでたくさんの税を納めている人も少なくないだろうし、家族を養うために残業や休日出勤にも耐えてがんばっている「おっさん」もいるだろう。人知れず汗を流す「おっさん」も大勢いるのだが、そうした「おっさん」も「社会悪の発生源」として誹りの連帯責任を負わされている。

 

あらゆるネガティブな事象の発生原因として見られる「おっさん」に同情を寄せるとともに、近い将来には自分もその「おっさん」という名の、いくらでも嘲笑したり差別してもかまわないカテゴリの仲間入りをすることにいまから恐怖を禁じ得ない。

画像:Newspicks「『さよなら、おっさん。』に込めた思い」(2018年6月26日)より引用

「差別を許さない社会」のガス抜き

「差別を許さない社会」は、いかなる人に対しても偏見にもとづく判断を許さず、ある人を「ほかのだれでもないその人自身」として理解することを要求する。

まさしく理想的な社会のありかたであるようにも思えるが、しかしながら、実際には一人ひとりとじっくり向き合って理解を深めるのはけっして容易なことではない。対人関係における「理解」には、多大な時間的・精神的リソースの供出が不可欠となるからだ。

私たちの時間的・精神的なリソースは無限ではない。それらは明らかに有限であるし、また豊富にあるとも言いがたい。私たちはいかなるときにも、出会った他者に対して十分なリソースを割き「一人ひとりを一切の偏見なく判断する」ことなど、残念ながらできないのだ。

したがって「時間的・精神的リソースを『省エネ』してジャッジできるような相手」が、ある種のガス抜き的な存在として社会に必要になる。