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なぜ「おっさん差別」だけが、この社会で喝采を浴びるのか

「ただしさ」を確認するための生贄

苛烈化する「おっさん」バッシング

いうまでもないが、現代社会は「差別を許さない社会」である。だが不思議なことに、ある特定の属性に対しては、ほとんどの人がその差別性を省みることなく、平気で差別的な言説を振りかざしている――その属性とは「おっさん」だ。

「古い価値観に固執し、過去の成功体験にすがり、年功秩序に盲従し、異質なものを受け入れない――それがおっさんの特徴だ」「この国の閉塞感や停滞感は、おっさんが政治と社会を牛耳っているからだ」など、各々が考える「社会悪」の発生源を「おっさん」に仮託している。

 

人を外見で判断してはいけない。所属で括ってはならない。人はそれぞれに個性があり価値がある。属性を根拠に偏見を抱き、バッシングすることは差別であり、けっして許される行為ではない――と声高に叫ばれる社会において、「おっさん」という属性をひとくくりにしたバッシングは、本来的には差別以外のなにものでもないはずだが、それが省みられることはほとんどない。

「社会に迷惑をかけるおっさん」「政治をダメにするのはおっさん」などと称して、自分たちが考える「悪」を「おっさん」に紐づけて記述することは、性差別・年齢差別だと非難されるどころか、むしろ「よく言った!」「まったくその通り!」などと大量の賞賛や共感が寄せられる状況となっている。

前時代的で時代遅れな人権感覚は「おっさん」特有のもの。セクハラやパワハラは「おっさん」が蔓延させたいまわしい陋習(ろうしゅう)。不祥事や汚職はみな「おっさん」によるもの。老害 is「おっさん」、「おっさん」is 老害――。

とにかくこの社会でなにか良くないことが起きたら、それを「おっさん」に帰責してもかまわないというような機運があることは、ちかごろとみに感じるところだ。しかし、この対象がもし「おばさん」だったとしたら、賞賛や共感が寄せられるどころか、発言者はたちまち「炎上」し、社会的生命が失われるくらいの騒動になっていることだろう。