誰もが毎日一度は口にしている「カッコいい」とは、どんな意味か?

定義が難しい、ふしぎな言葉
平野 啓一郎 プロフィール

幾ら不満とは言え、ルールはルールであり、それを守らないのは間違っているし、何事もやはり散り際が大事で、無様に醜態を晒す辰吉は、「カッコ悪い」というのが、彼の意見だった。

私は、グラスを拭きながら、その会話には参加せずに黙って聞いていた。どちらの言い分もわからないではないし、ある意味では、「生き様」を巡る古典的な価値観の対立とも言える。

 

しかし、「カッコ悪い」と言われた方は、最初こそ、「いやいや、カッコええやろ?」と笑いに紛らせつつ反論していたが、相手も引かないので、会話は見る見るうちに険悪になっていった。やがてカウンターを叩きながらの怒鳴り合いになり、到頭、つかみ合いの大ゲンカ(!)になってしまった。

私は、その辺りでさすがに止めに入ったが、それにしても、この一夜のことは、私の中に強烈な印象として残ることとなった。

あの二人は、一体なぜ、あそこまでアツくなってしまったのか?

勿論、ただの酔っ払いのケンカだと言えばそれまでだが、特に辰吉を「カッコいい」と惚れ抜いていた男性は、もうあの友人とは、二度と仲直り出来ないのではないかというほど感情的になっていた。

それはまるで、自分自身を「カッコ悪い」と面罵されたかのような腹の立てようで、気楽に言ったつもりの相手の方も、怒ってはいたが、些か呆れ気味だった。

因みに、辰吉はこの年の一一月、五度目の世界挑戦で三度目の世界王者に返り咲いている。もし二人の友人関係がまだ続いていたなら、鬼の首を取ったように「ほら、見ろ!」とまたこのケンカが蒸し返されたかもしれない。

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一体、「カッコいい」という概念は、浅いのか、深いのか?

今日に至るまで、この言葉がマトモな扱いを受けてこなかったのは、明らかに、その意味内容が軽んぜられていたからである。

ゲルハルト・リヒターの例を挙げたが、実際に、美術館で若いカップルが、彼の《アブストラクト・ペインティング》を前にして、「ヤバい、超カッコいいーっ!」などと興奮していたなら、ひとかどの美術愛好家を自任している人は、アートのアの字も知らん浅い感想だと、鼻で笑って冷ややかな眼差しを向けるかもしれない。

しかし、一方で、何を「カッコいい」と思うかという判断には、個人のアイデンティティと深く結びついた意味がある。人からそれを馬鹿にされると頭に来るし、傷つきもする。

他人のことはとやかく言えても、反対に、「じゃあ、オマエにとっての『カッコいい』人って誰なんだよ!?」と迫られると、一瞬、返答に躊躇する。

必ずしも自信がないわけではなくても、相手に通じないのではないか、と思うからである。そして、勇を鼓して答えてみて、「ハァ? ダッサ。」などと切り捨てられようものなら、そこからまた血の雨が降ることだろう。……

八〇年代のマイルス・デイヴィス

かく言う私は、昔からマイルス・デイヴィスのファンで、「カッコいい」人という時には、やはりすぐに頭に思い浮かぶ人の一人である。

しかし、同じマイルス・ファンだとしても、必ずしも油断は出来ない。いつの頃の、どういうところが「カッコいい」のかという、更に細かな話があるからである。

辰吉を巡るバーでのケンカを他人事のように書いたが、私自身、その後、八〇年代のマイルス・デイヴィスをどう思うか、という話を某氏としていて、「あんなん、どこがカッコええの? ギラッギラの演歌歌手みたいな服着て、めっちゃカッコ悪いわ。」と言われ、首を絞めたくなるほど(!)ムカついたことがある。

 

マイルスは、そのキャリアを通じて、音楽のスタイルもファッションも随分と変化しているが、私は基本的にその全部が好きなのである。

勿論、シラフの私は、相手に掴みかかったりはしなかったが、しかし、正直に告白すると、未だにその一言を根に持っていて、私の中でその人は、音楽やファッションのセンスのみならず、何から何まで“完全にダメな人”という極端な烙印が捺されてしまっている(そういうわけで、私と良好な関係を維持したい人は、ご注意を……)。

趣味の世界では、同じファン同士でも、自分の方がより詳しいし、より熱烈なファンだというゲンナリするような“マウントの取り合い”があるが、客観的に振り返れば、マイルスの中でも評価の分かれる時期であり、やっぱりマイルスは4ビートの時代が良かった、というのは、ある意味、平凡な意見である。

しかし、面と向かって「カッコ悪い」と宣告されたショックは、容易に消えるものではない。しかもそれは、私が「カッコ悪い」と侮辱されたわけではなく、私が「カッコいい」と思う人が「カッコ悪い」と言われたに過ぎないのである。

明確に言語化できていない

こうしたことは、大なり小なり、恐らく多くの人が、人生のどこかで経験しているに違いない。

誰を「カッコいい」と思うか、という告白には、単なる好き嫌いの表明以上に、個人のアイデンティティの本質を問うような、繊細で、ゆるがせに出来ない何かが含まれている。何とも言えず、軽薄で、チャラチャラしているように見えながら、その実、人を真剣に、感情的にさせてしまうのが、「カッコいい」の両義性である。

そして、繰り返しになるが、何よりも社会が「カッコいい」を馬鹿に出来ないのは、それが持つ法外な動員能力と、消費刺激力の故である。

一体、「カッコいい」とは、何なのか?

私は子供の頃から、いつ誰に教えられたというわけでもなく、「カッコいい」存在に憧れてきたし、その体験は、私の人格形成に多大な影響を及ぼしている。

にも拘らず、このそもそもの問いに真正面から答えてくれる本には、残念ながら、これまで出会ったことがない。そのことが、「私とは何か?」というアイデンティティを巡る問いに、一つの大きな穴を空けている。

更に、自分の問題として気になるというだけでなく、二一世紀を迎えた私たちの社会は、この「カッコいい」という二〇世紀後半を支配した価値を明確に言語化できておらず、その可能性と問題とが見極められていないが故に、一種の混乱と停滞に陥っているように見える。

そんなわけで、私は、一見単純で、わかりきったことのようでありながら、極めて複雑なこの概念のために、『「カッコいい」とは何か』を執筆することにした。

これは、現代という時代を生きる人間を考える上でも、不可避の仕事と思われた。なぜなら、凡そ、「カッコいい」という価値観と無関係に生きている人間は、今日、一人もいないからである。