誰もが毎日一度は口にしている「カッコいい」とは、どんな意味か?

定義が難しい、ふしぎな言葉
平野 啓一郎 プロフィール

最高の褒め言葉

いきなり文学の話が続いたが、「カッコいい」という言葉が、作品の評価として、より自然に用いられるのは、ダンスや音楽──それも、主にポピュラー・ミュージックの分野──だろう。

 

ロックにせよ、ジャズにせよ、テクノにせよ、ヒップホップにせよ、二〇世紀後半以降の音楽は、伝統的な美学の「美」や「崇高」よりも、遥かに「カッコよさ」をその理想としていた。

ビートルズも、マイルス・デイヴィスも、ジェフ・ミルズも、Run-DMCも、「カッコいい」という評価を抜きにしては、決してその存在を論ずることは出来ない。《ビリー・ジーン》を歌いながらムーンウォークを披露するマイケル・ジャクソンに、どうして人はあんなに熱狂したのか?──愚問だろう。「カッコよかった」からである!

これは、プロアマを問わない話であって、友達のバンドをライヴハウスに聴きに行っても、「カッコよかった」というのは最高の褒め言葉であり、「カッコ悪かった」というのは、最悪の酷評である。

どんなに超絶技巧で、音楽理論的に高度なことをしていても、「カッコ悪」ければ、すべて台なしであり、逆に、演奏がヘタで楽曲が単純でも、「カッコいい」音楽は賞賛される。パンク・ロックは、その代表的な成功例であり、こうした価値基準から漏れてしまったクラシックの現代曲などは、一般的な人気からは遠ざかってしまった。

勿論、音楽のみならず、「カッコいい」ことの価値は、ファッション、自動車、家具や家電、ポスターなど、ありとあらゆるデザインの領域に浸透し、また映画や建築、更にはアートでさえ、その巨大な影響を被っている。

ボツとなったザハ・ハディッドの新国立競技場のデザイン案が発表された時、多くの人の口を衝いて出た言葉は、「美しい」でも「崇高」でもなく、「カッコいい」だった。そして、予算圧縮による修正案が提示された時、その失望を最も端的に言い表した言葉は、「カッコ悪い」だったはずである。

あるいは、ゲルハルト・リヒターの《アブストラクト・ペインティング》なども、私たちは、難解な美術批評の議論はさておき、ともかくも、「カッコいい」ものとして受け止めている。バーネット・ニューマンのように、自ら「崇高」という概念を唱え、そのように論じられてきた作品も、実のところ、「カッコいい」と言った方が、遥かにピンと来るのではあるまいか?

コム・デ・ギャルソンも、フェラーリも、iPhoneも、『攻殻機動隊』も、「カッコいい」という言葉を用いることなしには到底、その魅力を語ることは出来ないだろう。

「カッコいい」は、民主主義と資本主義とが組み合わされた世界で、動員と消費に巨大な力を発揮してきた。端的に言って、「カッコいい」とは何かがわからなければ、私たちは、二〇世紀後半の文化現象を理解することが出来ないのである

にも拘らず、この「カッコいい」という概念は、今日に至るまで、マトモに顧みられることがなく、美術や音楽の真剣な議論の対象とはなってこなかった。文学の世界でも──三島はトリッキーにそれを鴎外礼讃に用いてみせたが──凡そ、真っ当な批評用語としての地位は与えられていない。

これは、非常に奇妙な事実である。

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根本的な問題として、「カッコいい」という概念の定義の難しさがある。

誰もが、「カッコいい」とはどういうことなのかを、自明なほどによく知っている。

ところが、複数の人間で、それじゃあ何が、また誰が「カッコいい」のかと議論し出すと、容易には合意に至らず、時にはケンカにさえなってしまう。

ブランドのロゴが、胸に大きくプリントされたTシャツは、果たして「カッコいい」のか、「ダサい」のか?スポーツカーに乗ることとエコカーに乗ることとは、どちらが「カッコいい」のか?あるいは、デートの最中にチンピラに絡まれた時には、恋人を守るために相手をぶっ飛ばす方が「カッコいい」のか、適当にあしらって事を荒立てない方が「カッコいい」のか?……

辰吉丈一郎は「カッコいい」か否か

私が、「カッコいい」という言葉のふしぎさを思い知ったのは、大学時代のこんな“事件”がきっかけだった。

 

一九九七年、私は京都大学の近くのバーで、バーテンダーのアルバイトをしていた。

その日も、カウンターに座っていたサラリーマン風の男性客二人が、仲良くほろ酔い加減で談笑していた。何の変哲もない風景だった。

そのうちに、いつの間にか、プロボクサーの辰吉丈一郎に話題が及んだ。

辰吉は、九一年に、当時最速のデビュー八戦目でWBC世界バンタム級チャンピオンとなったカリスマ的ボクサーだった。しかし、その直後に、不幸にも「網膜裂孔」が発覚。手術によって回復はしたものの、離脱中に暫定チャンピオンの座についていたメキシコのビクトル・ラバナレスと王座統一戦を行い、敗北を喫してしまう。

その後、再起戦で勝利し、更にラバナレスとの再戦で雪辱を果たして暫定チャンピオンとなるも、今度は「網膜剥離」が発覚し、タイトルの返上を迫られる。日本ボクシングコミッション(JBC)は、ルールによりそのライセンスの発行を停止し、辰吉は国内での試合が出来なくなってしまった。

とは言え、医学の進歩を受けて、アメリカを初めとする海外では、当時既に「網膜剥離」の治癒後の復帰を認めている国もあり、ボクシング・ファンの間では侃々諤々(かんかんがくがく)の議論が巻き起こった。

辰吉は結局、九四年に、JBC管轄外のハワイでカンバック戦を行い、メキシコの強豪に見事KOで勝利する。こうなると、ファンもいよいよヒートアップし、JBCは、対戦が熱望されていたバンタム級チャンピオンの薬師寺保栄との王座統一戦に限り、“特例”として国内での試合を許可するに至った。

ただし、「網膜剥離の再発、もしくは一試合でも負ければ即引退」という厳しい条件が付されていた。そして、同年末に実現したこの試合で、辰吉は、壮絶なフルラウンドの死闘の末、敗北する。

この辺りまでは、ファンも多くが辰吉を支持していた。しかし、この試合でやりきったと思われていた彼は、意外にもJBCが提示していた条件に従わず、再び引退を拒否して、翌年ラスベガスで二試合を行い、いずれも勝利する。

対処に困ったJBCは、なし崩しに、「医師の診断があれば、世界戦に限り彼の国内での試合を許可する」という決定を下したが、この再三の“特例”は、物議を醸すこととなった。

一九九六年から九八年にかけては、二階級制覇を目指し、WBC世界ジュニア・フェザー級(現・スーパーバンタム級)王者ダニエル・サラゴサに挑戦するが、いずれも惨敗。しかし、辰吉はここでも現役続行を表明することとなる。……

話を戻すと、京都のバーで、酔っ払った二人が話題にしていたのは、こうした経緯だった。

私の向かいで飲んでいた男性の一人は、ボロボロになっても、JBCから何度引退勧告を受けても、好きなボクシングを続けようとする辰吉こそは、「男の中の男」だ、「カッコいい」と熱心に語っていた。

ところが、一緒に飲んでいたもう一方の男性は、それにまったく否定的だった。