「死ぬとはどういうことですか?」田原総一朗が南直哉さんに尋ねた

宗教者との対談①南直哉
田原 総一朗 プロフィール

「ほかに頼るものがないんですよ」

――僕は、キリストにもブッダにも、共感はします。しかし信仰には到らない。ここが南さんとの違いです。
「僕も、ゴーダマ・ブッダに、深い共感はありますが、信仰は感じません。『この人が2500年前にいてくれて助かった』という感じです」

――えーっ! 南さんも信仰は感じない? だって南さんは仏門に入ったのでしょう?
「信じる必要はない。バクチ、賭けですよ。僕にとっての『信じる』というのは、バクチです。ほかに、ツールとしてやりようがなかった。だから出家するとき、『これでダメだったら死のう』と覚悟したのです。一か八かです」

――だけど、仏教は、輪廻転生だから、自殺はダメなのですよね。輪廻転生を破ることになるから。
「僕は、実は輪廻転生はいらない教えだと思っています」

――えーっ。輪廻転生はインチキですか。
「インチキとは言わない。だって、僕は死んだことがないから。僕は、ゴーダマ・ブッダの教えの中で、輪廻転生はなくてかまわないと思うのです」

――僕は、かつて創価学会の池田大作氏に、「輪廻転生というけれど、誰も、前世も来世も見たことがないではないか」と言ったのです。すると、「来世がないと思って、悪いことばかりして、来世があったら大変だ。いいことをして、来世がなくたっていいではないか」と池田氏は答えました。
「輪廻転生をいう人は、倫理を持ち出すのです。キリスト教は、善悪が神様に預けられていますが、『諸行無常』はそこを抜け出してしまっている。仏教では輪廻転生はいらない考えだ、と私は思っています」

――大共感です。ところで、話は飛びますが、南さんは、なぜ親鸞ではなくて、道元なのですか。日本では親鸞に共感する人間のほうが多いと思いますが。
「おそらく、会って好きになるのは親鸞の方だと思います。あの人の悩み方が好きですね。あの人は、たぶん、念仏も阿弥陀も信じてないと思いますよ」

――そうですか。信じてないですか。
「信じきれなかったと思います。親鸞のあの切なさがよくわかる。しかし、道元禅師に行ったのは、『正法眼蔵』がどうしてもわかりたかったからなのですよ。どうしてもね」

 

――それで、永平寺だったわけですね。
「これをなんとかするには、一回は、あの人がやったことに近いことをやらなければだめだと思って、だから出家して、20年近く永平寺にこもったのです」

――20年近く永平寺にこもって、掴めたわけですか。
「一つは、わかるということ、人間が何かを理解するというのは、要するに誤解することだということがわかりました。誤解であることを自覚しながら、その誤解を更新するというか、繰り返し繰り返し自分の考えることを更新していく、言葉で言えない真理は、言い続けることの抵抗感でしか感じられないだろうと思うんですね。『正法眼蔵』という書物は、一種の言語の運動であって、何かを言い切ろうとしているのではないのですよ。そうすると、生涯かけて追いかけていく価値のある本だな、とあらためて認識しました」

――南さんは、今は仏教を信じているのですか。
「ほかに頼るものがないんですよ」

――繰り返しになりますが、僕は仏教を理解しているつもりですが、信者にはなれない。
「だから、信じる必要はないですよ。要は、ほかに頼るものがない以上は、そこに賭けるしかありません。迷っていた時期もありますが、気が付いたら60歳になっていました」

南直哉氏は、まったくかっこうつけない口調で語った。南氏の話を聞くことで、あらためて仏教の奥の深さを思い知らされ、仏教書が数多く出版されていることを再認識した。そして、南氏とは捉え方の異なる他宗派の僧侶の話をぜひ聞きたいと強く思った。

7月に発売される南氏の新著
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